幸田真音 傷 邦銀崩壊(下) 目 次  第五章 報 復  第六章 醜 聞  第七章 誤 算  エピローグ 主な登場人物 有吉|州波《すなみ》 [#2字下げ]モーリス・トンプソン証券会社、取締役 国際営業部門の女性トップ・セールス 芹沢裕弥   ファースト・アメリカ銀行東京支店、短期金融市場担当ディーラー 明石哲彦   康和銀行ニューヨーク支店、ディーリング室課長 明石慶子   明石哲彦の妻 児玉 実   ファースト・アメリカ銀行東京支店、債券トレーダー ケネス佐々木   ニューヨーク市警察、捜査官 ジョン・ブライトン   国際的エコノミスト アブドラマ・ハニーフ   国際金融市場で活躍する屈指の投資家、ハニーフ家の長男 チャールズ・リー   香港華僑の大富豪、李家の長男 スティーヴン・ロビンソン三世   米国上院議員 宮島秀司   大蔵省、銀行局審議官 相馬憲暁   大蔵省、証券局審議官 井村俊和   大蔵省、銀行局業務課長補佐 櫻井偉平   康和銀行、頭取 森 政一   康和銀行、副頭取 高倉光明   康和銀行、ニューヨーク支店長 本多浩信   康和銀行、元ニューヨーク支店長 道田 均   康和銀行ニューヨーク支店、ディーリング室調査役、明石の部下 東山理一郎   メイソン・トラスト銀行、極東部門統括代表 岸本和生   メイソン・トラスト・アジア証券、東京支店長 斉藤良治   野々宮証券株式会社、債券営業部部長 榊原 仁   経済評論家 疋田雅之   モーリス・トンプソン証券会社、東京支店長 [#改ページ]  第五章 報 復     1  腕時計が午後八時二十分を指していた。  まだ約束の時刻の十分前である。芹沢裕弥は新宿の高層ホテル、パークハイアット東京の四十一階でエレベータを降り、まっすぐにラウンジに向かっていた。照明を落としたラウンジの入り口に立ち、目を凝らしてラウンジの中をくまなく見渡していると、黒服を着た係りの男がにこやかに近づいて来た。 「お一人ですか?」  男が訊いた。 「あとからもう一人来るはずなんです。あの、カウンターにしてくれますか?」  昨日の午後、有吉州波に電話をかけたとき、少し早めに着いてカウンター席に座って待っていると告げておいた。できるだけ見つけやすいように、カウンター席の中央に座ると、正面のバーテンダーの肩越しに夜景が見える。若いバーテンダーは一人黙々とカクテルを作っていた。 「何になさいますか?」  別のバーテンダーが、芹沢の前にやってきた。 「バランタインのソーダ割りを。ダブルにしてください。あ、やっぱりシングルでいいや」  芹沢はそう言ってから、もう一度エレベータの方へ顎を向けた。  州波は本当に現れるのだろうか。  そしてもし現れたら、ここでどうやって話を切り出せばいいだろう。芹沢はそのことについて、まだ何も考えていないことに気がついた。児玉の前で息巻いてみせたものの、州波にどんなふうに話をすればいいか、いまになってみると何も浮かんではこないのだ。州波はあまりにも簡単に会うことを承諾した。それはいまでも不思議なくらいだ。だから、もしかしたら最初から来ないつもりだったのではという気にさえなってくる。  たとえ現れたとしても、芹沢がうまく話を進めないと、州波はすぐに立ち去ってしまうだろう。それだけはなんとしても避けなければならない。  ここでできるだけ引き止めて、そのあとどうするか。州波が現れる前に、せめてその筋書きを考えておこうと思うのだが、そう思えば思うほど頭が空回りするばかりで、何ひとつ考えがまとまらない。芹沢は急に焦りを感じ始めた。  昨日の午後、芹沢がモーリス・トンプソン証券に電話をして、実際に有吉州波にたどりつくまでの間は、思った以上に忍耐力が必要だった。最初に電話をとったオペレータから、どこをどうまわされたのか、三人もの若い女性が入れ替わり電話口に出てきたからだ。  州波が電話に出てさえくれたら、会う約束を取り付けることには自信があった。自分には切り札があると思っていたのだ。だが、次々とたらいまわしにされているうちに、芹沢の緊張は極度に高まってくる。そうなると、つまらない考えばかりがわいてきた。いくら切り札があるとはいっても、首尾よく説得ができるだろうかとか、途中でぼろが出はしないかなどと、気後れを感じないではいられない。  いったいいつまで待たせる気だと、苛立ってきて、いっそ電話を切ってしまおうかと思ったとき、落ち着いた女性の声がした。 「お待たせいたしました、有吉です」  一語一句はっきりとした話し方だが、柔らかさのある、耳に心地よい声である。もっともその声からは、何の感情も読み取ることはできなかった。  芹沢が、明石哲彦の古い友人だと名乗った瞬間、州波の声が途切れた。回線が切れてしまったのではないかと思うほど、不自然な沈黙が続く。芹沢が我慢できずに「もしもし」と言うと、やっとのことで州波が声を発した。だが、そのときの州波の声は、それまでとはまるで別人のようで、途切れそうなほど頼りなげだった。  やはりそうだ。州波は明らかに動揺している。つまりは、芹沢の推理があながち間違いではなかったということなのだ。この声の明らかな変化が、そのことを裏付けている。芹沢はすぐにそう思った。  最初はそのことが嬉しかった。してやったりという満足感だ。だが、次の瞬間、なんとも言えない無念さに変わっていく。やはり、明石はこの女に関わっていたのだ。この女によって追い詰められたか、あるいは誰かに追い詰められるように仕向けられたのではという芹沢の推理は、間違っていなかったのである。  ならば、もう後へは引けない。芹沢はあらためて、自分を奮い起たせた。 「それで、私にどんなご用件でしょうか?」  州波は、必死で平静をつくろっているようだった。 「一度お会いできればと思うのですが」  芹沢がそう告げたとき、州波は明らかに当惑していた。しかし芹沢はひるまずに続ける。 「実は、明石から預かっているものがあるんです」 「え?」  州波の驚きは、芹沢の想像をはるかに超えていた。あまりの反応に、逆に芹沢のほうがうろたえてしまったぐらいだった。芹沢は一度間を置いて、気持ちを立て直してからまた続けた。 「実は明石が亡くなる前日、ニューヨークで彼と偶然会いましてね。そのとき、彼からあなた宛の手紙をお預かりしたんです。そのすぐあと、自殺のニュースを聞いたので驚きましたよ。すぐにお渡ししなきゃと思ったのですが、あなたがどこにおられるかわからなくて、探し出すのに苦労しました。すっかり時間がかかったものですから、こんなに遅くなってしまい、申し訳ないと思っています」  自分の口から、よくもこんなにすらすらと嘘が飛び出すものだと、不思議だった。 「できれば、すぐにもお会いできませんか?」  芹沢がとどめを刺すように言うと、州波は少し考えて、明日ではどうかと言う。そして場所と時間を向こうから指定してきた。 「結構です。あなたのお顔は雑誌などでお見かけしていますので、わかると思います。カウンターのほうへ来ていただければ、見つけて僕のほうからお声をかけますから」 「わかりました。では明日」  州波はそう短く言っただけで電話を切った。話をしたのは芹沢のほうばかりで、州波はほとんど何も言わなかった。だが、芹沢の計画は、これで確実に一歩を踏み出したことになる。それにしても、簡単に事が進みすぎた。策略通りだとはいえ、州波があまりにあっさりと会うことを承知したのが、芹沢にはかえって気になった。 「おかわりはいかがですか?」  新しいバーテンダーと入れ替わったようだ。さっきよりやや年輩のバーテンダーは、空になったグラスを見て声をかけてきた。  芹沢は現実に引き戻された。四杯目のスコッチを注文して腕時計を見ると、八時五十六分になっている。遅いな、と口のなかでつぶやいて、芹沢は顔を上げた。  そのときだった。人の気配より先に、覚えのある香りが芹沢を包んだ。決して甘いだけでない芯に強い主張のあるあの匂い。  思わず振り返ると、すぐ目の前に有吉州波が立っている。会社から直接来たのだろうか、麻の極細糸で織られた光沢のあるグレーのジャケットに、細身のロング・タイト。中には葡萄色の柔らかなシルクのブラウスを合わせている。芹沢はすぐに椅子から降りて、カウンターの前に立った。  間近で見る州波は、驚くほど白い肌をしていた。まるで血のかよっていない白磁のようだ。手を触れたら、本当にひんやりと冷たいのではないかと芹沢は思った。それほど、無表情な顔だったからかもしれない。  肩のあたりで切り揃えた髪に、カウンターのスポット・ライトが当たって、さらさらと光りながら流れた。 「芹沢さんですね。大変お待たせいたしまして、申し訳ございません」  州波は早口だが、丁寧すぎるほどの口調で遅れたことを詫びた。背筋を伸ばし、目はまっすぐに芹沢の顔に向けられている。だがその表情からは、やはり何も読み取れなかった。完全に感情を殺している顔だと芹沢は思った。思わず見とれていた芹沢は、あわてて頭を下げた。 「あ、いや。こちらこそ、お忙しいのにすみません。突然お呼び立てしまして」  耳に聞こえてくる自分の声が、明らかにうわずっていた。芹沢は自分に向かって落ち着けと諭した。こちらの動揺を、決して悟られてはいけない。あくまで優位に立って話を進めなければならないのだ。州波のペースに巻き込まれないよう、ゆっくりと、あえて低めの声を出して話すことにした。  まず名刺を出し、名前を名乗りながら渡す。州波は芹沢の名刺を受け取り、しばらく見てはいたが、自分の名刺を出そうとはしない。 「あの──」  芹沢が目で催促するように州波を見る。 「申し訳ございません。私、プライベートの時間は名刺を持たないものですから」  州波はぴしゃりと言った。芹沢は返す言葉もなく、憮然とその場に立っていた。州波の言葉遣いは確かに礼儀正しいのだが、相手を拒絶するような響きがある。芹沢とは必要以上には近づくつもりがないのだと、ことさら強調しているようにも聞こえる。それだけ警戒しているということなのだろうか。  州波が上着のポケットに無造作に名刺を入れるのを見て、芹沢はとにかくカウンターの椅子に落ち着くことだと思った。自分の隣りの椅子を引いて、当然のように州波に席を勧めたが、州波はそれを完全に無視するかのように言った。 「行きましょうか」 「え?」  どこへ、と訊ねるよりも早く、州波は言った。 「ここでは目立ちすぎますでしょう?」 「はあ」  思わずそう答えて、すぐに、自分の声がひどく間が抜けたように響いたのが気になった。だが、州波は相変わらずの無表情で、黙ってフロアの奥へ歩いて行く。芹沢はあわてて伝票を取り、入り口近くのカウンターで支払いを済ませた。  州波のあとを追って急いでエレベータに乗ると、州波はためらいもせずに四十九階のボタンを押した。 「あの、上へ行くんですか?」  芹沢は、当然下へ降りて、このホテルを出るのだとばかり思っていた。 「私の部屋でお話ししましょう。よろしいですね?」  州波はまっすぐに芹沢を見た。まるで表情のない顔だ。芹沢に同意を求めるというより、有無を言わさず、命令している顔である。思いもよらない展開に、芹沢はすっかり心のゆとりをなくしていた。  おそらく、これが州波の計画だったのだろう。こうやって、何のためらいもなくホテルの自室へ男を招き入れる。これが州波のやり方なのだ。芹沢はついに州波の本性を見た思いがした。 「いいですよ、もちろん」  つとめてさりげなく、そう答えた。望むところだ、とでも言いたいぐらいだった。だが、エレベータが一階ずつ上がっていくたびに、次第に動悸が激しくなるのを感じた。鼓動が耳の奥に共鳴して聞こえる。芹沢は思わず唾を飲み込んだ。その音すらも、静かなエレベータ中に響き渡っているようだ。  芹沢は、自分で思っている以上に動揺しているのを感じた。ひとまず冷静になり、ここは相手の動きに添って進むしかない。そうやって州波の行動を突き止めることが必要なのだ。芹沢は何度も自分に言い聞かせた。  エレベータは四十九階に着いて止まった。ドアが開くのを待ちかねたように、州波は一歩前を歩いて、芹沢を自分の部屋まで誘導した。 「どうぞ」  部屋のドアを開けて、先に入るようにと促した。芹沢は一瞬|躊躇《ちゆうちよ》した。 「どうぞ、お入りになって。私がここに部屋を借りていることは誰も知りません。ですから、ここなら誰にも気づかれませんわ」  本当にその通りならいいのだがと思った。州波と二人だけなら、少なくとも腕力で負けることはない。芹沢が部屋に入ると、州波はすぐに自分もあとから入ってきた。ドアが閉まる音が異様に大きく聞こえた。自動ロックがかかったはずだ。これでもう誰も入ってくる者はいない。  いま、自分は有吉州波とたった二人で、鍵のかかったホテルの部屋にいる。そんな思いが、芹沢の緊張をさらに倍加させていた。  柔らかな|琥珀《こはく》色の照明のなかで、案内されるままに歩いて行き、部屋の奥に入った途端、芹沢は思わず息を呑んだ。  みごとな夜景だった。少し出窓になったガラス窓は、芹沢のマンションの二間をぶち抜いたほども大きく、その一面に広大な夜の関東平野が広がっている。自分がいまどこにいて、何をしようとしていたか忘れるほど、その夜景に目を奪われた。 「どうぞ、おかけください」  州波の声で、芹沢はすぐに現実に引き戻された。部屋はかなりの広さだ。奥の隅には大きめのデスクが設けられ、その上には大型のモニターのついた二台のパソコンとファックス、それに、どこかと直通になっているのか、二台の電話機が並んでいる。まるでオフィスといったコーナーである。芹沢はさりげなさを装いながら、さらに注意深くあたりを観察した。少なくとも、ほかに人がいそうな気配はなかった。  言われるままにソファに腰を下ろした芹沢の前に、州波が赤ワインの入ったグラスを二つ持って来た。 「あいにく、これしかなくて」  そう言ってグラスを差し出す州波は、ラウンジで見たときより、心なしかくつろいで見えた。横顔にほのかな赤みがさしている。 「ありがとうございます」  夜景を見たせいか、少し落ち着いた芹沢は、礼を言ってグラスに手を伸ばした。 「早速ですが、明石さんがお預けになった私宛のお手紙というのを拝見したいのですが。あの、どういうものでしたか。書類でしたか、それともフロッピーとか|光磁《M》気ディ|スク《O》のようなものですか?」  州波は、もう一分たりとも待ちきれないという顔で切り出した。早く渡すものを渡して、用件が終わったらすぐに消えてほしいのだと言わんばかりである。ついに来たかと芹沢は思った。 「あなたも、明石さんからお聞きになったんですね、例のこと」  州波は確かめるような目をして、まっすぐにこちらを見た。芹沢には、例のことというのが何を指すのか見当もつかなかった。だが、知っているふりをしなければならない。ここで嘘だと感づかれてはいけないのだ。どうやってはぐらかそうかと、必死で考えをめぐらせた。 「え? ええ、もちろん明石からみんな聞きました」  芹沢は、大きく二度もうなずいた。 「そうでしたか、知っているのは、私だけかと思っていましたが、それなら話が早いですわ。だけど、ひどいと思われますでしょう?」 「ひどい? え、ああ、本当にひどい話です」  芹沢は、できる限り自然な顔をしていられるようにと、意識を集中した。だが、そう思えば思うほど、鼓動は早くなってくる。 「で、あの、私宛の手紙というのはどちらに──?」  州波はまた話題を手紙に戻してくる。もちろん、そんな手紙など持っているわけはない。芹沢は州波に悟られないように、わざとのんびりした態度で、話題を変えた。 「ええ、すぐにお出ししますよ。それにしても、ここの夜景はみごとですね」  窓に広がる夜景に目を奪われたふりをして、大げさに感心して見せながら芹沢は言った。州波の関心を、一秒でも長く手紙から遠ざけ、その間に、次の作戦を考えなければならない。 「ここにいると、なんだかニューヨークを思い出しますよね。僕もときどきさっきのラウンジには来るんですよ。ちょっとマンハッタンにでもいるような雰囲気になれますでしょう」  芹沢は州波から視線をはずして外を見た。 「ここはニューヨークとはまるで違いますわ。東京は、ニューヨークとは何もかもが違います」  州波は吐き捨てるように言った。よほど東京が嫌いなのかもしれない。芹沢はふと思った。だが、州波のペースに巻き込まれてはいけないと、すぐに思い直した。 「そうかもしれません。だけど、明石はちょうどこんなマンハッタンの夜景を見ながら、その夜景の中にみずから飛び込んでいったんです。こんなきれいな夜景を見ても、それでも死を選ばなければならないほど、何をそんなに悩んでいたのでしょうか」  州波は思いつめたような表情のまま、黙っていた。 「そう、あのときとは、季節も違っている。あれは十一月の寒い夜だったんですよね。あの夜、あいつはいったいどんな思いでいたのかと思うと、いまでもたまらなくなる」  その顔に表れる州波のどんな変化も見逃すまいと、芹沢はさらに続けた。 「僕はあのとき、たまたまニューヨークに出張していて、あいつが死ぬ前の晩に一緒に飲んだんですよ。そのときは、まさかあいつが死のうとしているなんて、そんなことまるで感じられなかった。実際、あいつは当日の昼にも僕に電話をくれているんです。自殺するほんの何時間か前にですよ」  そう言いながら、また州波を見た。だが、いくら誘い水を向けても、州波は決して口を開こうとはしない。ただ、ずっと黙ったまま窓の夜景を見ているだけだ。夜景を見ているというより、窓の向こうの何かをじっと睨み付けているようだ。芹沢が何を言っても、耳に入ってはいないのかもしれない。  その横顔を見ているうちに、芹沢は無性に腹が立ってきた。州波があまりに冷静なのが許せないと思った。この女は何を考えているのだ。あの明石にいったい何をしたというのだ。  明石の自殺に対して、なぜこれほどまでに平然としていられるのだろうか。そう思うと芹沢は、なんとしても、州波が困惑し、|狼狽《ろうばい》するところを見てみたいと思えてきた。揺さぶって、なんとか取り乱させてみたい衝動にかられた。 「あなたはあいつと一緒にいたのではないんですか、スー?」  州波はハッとしたように芹沢に向き直った。 「どうして、その呼び名を?」 「先週ニューヨークで、あなたを明石の奥さんだと言った人に会いましたよ」 「え?」  望み通り、州波は動揺を見せた。ニューヨークのホテルで、あの男が言っていたスーという女性は、やはり州波だったのだ。 「最後に明石に会ったとき、あいつからあなたのことを聞きました」  芹沢は、苦々しい思いをかみしめながら言った。州波は、射るような目で芹沢を見返している。 「どんなふうにおっしゃっていました?」  そう訊いた州波の顔に、かすかに何かを怖れているような気配が見えた。明石が何を話したのかが、そんなに気になるというのか。いまさらそんなことを訊いて、どうするんだ。芹沢は一瞬自分が優位に立ったような気がした。 「あなたのことを、誰よりも一番近くにいてくれる人だと言っていました。ずっと支えてくれている人だともね」  明石への精一杯の同情をこめてそう言った。州波は意外なことを聞いたという顔をし、そのことに戸惑っているようにも見える。そしてそのまま顔をそむけた。芹沢は州波の反応を、何ひとつ見逃さないように細心の注意を払って見つめていた。  この女は、明石にそこまで言わせたのだ。そんなふうに明石に思い込ませ、計画どおりに利用したのではなかったのか。それならなぜ、いまごろになってそんな驚いた顔をする。芹沢は自分の奥深いところで、ふつふつと憎しみがたぎってくるのを感じた。  なぜそんなにまでして明石を追い詰めたのだと、目の前の州波に問いたかった。どうしてそこまでしなければならなかったのだと、州波の両肩をつかんで叫びたい。芹沢はいまにも立ち上がろうとする自分を必死で抑えた。  州波は背中を見せ、いつまでたっても動こうとはしなかった。ずっと|俯《うつむ》いたままで、一言も発しない。泣いているのだろうか、とふと思った。その顔も、もちろん涙も、こちらから見ることはできないが、まるで州波の全身が声をあげているように見えた。 「いまごろ悔やんだって、もう遅いさ」  突き放すようにそう言った。自分の声がぞっとするほど冷たく部屋に響く。芹沢は、自分が限りなく残酷な気持ちになっているのを感じた。 「──そう、ですね」  かすかに、州波がそう言ったような気がした。     2  芹沢裕弥という男から電話がかかっていると、秘書が告げに来たとき、州波はとうとう来たかという思いがした。明石が自分に宛てた手紙を、最後にこの男に託したのを知ったときは、やはり明石が自分を助けてくれるのだと確信した。 「すぐにもお会いして、この手紙をお渡ししたいのですが」  電話で話してみた限り、芹沢は誠実そうな男だった。明石から聞いていたとおりだと思った。これで救われる。そう思うと、州波は嬉しかった。  芹沢という男は、おそらく世界中で、自分と同じ気持ちを分かち合えるただ一人の存在かもしれない。その男にやっと会えるのだ。芹沢ならきっとわかってくれる。そしてあの日以来、州波がずっと探し続けていたものを、しっかりと守りぬき、届けに来てくれる。  明石が死ぬ前に自分に託したもうひとつのものを、一刻も早く見たいと思った。明石が芹沢に預けたその資料さえあれば、すべて立証することができるのだ。そうすれば、州波の計画は間違いなく成就するはずだった。  これで、明石の死を無駄にしないで済む。そして、それはなんとしても州波が成し遂げなければならないことなのだ。  次の日、州波はたまっていた仕事もそのままにして、会議も途中から抜け出し、急いでパークハイアットに向かった。ラウンジに着くと、芹沢の顔はすぐにわかった。やはり以前恵比寿で会った人物と同じだとわかったとき、明石に感謝したい思いで一杯になった。  明石が託してくれた資料の受け渡しについては、完璧に秘密を守らなければならなかった。計画を成功させるには、どんな人間にも漏れてはいけない。すべてを明るみにさらすまでは、最後の最後まで、誰の目からも隔離し、細心の注意を必要とするのだ。  芹沢を自分の部屋に招くことに抵抗はなかった。州波にとって、芹沢は明石にもっとも近い存在に思えたからだ。ほとんど明石と同じだと思っていいのかもしれない。明石が姿を変えて、来てくれたような錯覚さえした。  ラウンジで芹沢と会ったときは緊張したが、ついに探していたものが見つかったという喜びがあった。だが、このあとに控えている計画の最終段階に向けて、州波はこれまで以上に慎重になった。  ラウンジを出てエレベータに乗り、部屋にはいった途端、気持ちが緩んだ。芹沢はやはり思ったとおりの男だった。ただ昔の写真で見た印象より、実際のほうが背が高く痩せている。髪はこの前見かけたときよりだいぶ伸びていたが、細くて黒いメタル・フレームの眼鏡が、顔全体に|精悍《せいかん》な印象を与えていた。濃紺のダブルのスーツと、小さく結んだプリントのタイは、垢抜けてはいるが、明石とは対照的なほど地味な雰囲気だ。  一度見かけただけなのに、最初から懐かしさを感じたのは、明石から何度も見せられた昔の写真のせいだったのだろうか。それ以上に、明石から何度も聞かされた昔話のせいかもしれない。屈託のない少年時代の話は、明石が何より好んだ話題だった。  だからよけいに、芹沢が明石のことを話し始めたとき、州波は冷静ではいられなかった。明石が州波のことを、死ぬ間際に親友に語っていたというのだ。その事実は、そのまま州波の心に沁みていくような気がした。おそらく州波という存在について、明石が誰かに打ち明けたのは、あとにも先にもこの芹沢一人に違いない。  誰からも、ずっと隠し続けなければいけなかった州波の存在を、最後になって、一番大切な親友にだけは言い残しておいてくれたのだ。芹沢の口から語られる自分への伝言は、そのまま明石自身の言葉として、いまの州波を勇気づけてくれるものだった。  明石の死を知った瞬間に凍りつき、そのまま今日まで州波の胸にとどまっていた大きな固まりが、急激に溶け出していくような気がした。  明石が逝ってしまった日から、いや正確にはその二日前、出張で明日はフランクフルトに発つという州波が、マンハッタンのホテルの部屋で明石と別れたとき以来、ずっと一人で耐えてきたのだ。そのすべてが、いま芹沢の口を通して語られる明石の言葉によって、溶け出していく。  目の前にいるのは、芹沢の姿を借りた明石そのものだ。明石がいまそばにいてくれる。そう思うと自然に心が解き放たれ、安らいでいくのを感じる。できれば芹沢の胸を借りて、涙の限り泣き果てたい。そうすれば、どんなにか楽になれるだろう。  幸いなことに、芹沢は明石からすべてを聞かされ事情を知っているようだ。今後は芹沢という大きな協力者を得て、これまでたった一人で戦ってきたことを、この男と分かち合える。  州波を縛りつけていたものが、ゆっくりと解けていくのを感じていた。  芹沢が立ち上がってそばに来たことには、まるで気がつかなかった。突然肩をつかまれて、州波が振り向くと、すぐ目の前に芹沢の顔があった。     3  倒れかかってきたのは、州波のほうだった。  無理に抱き寄せたわけでも、押し倒したわけでも断じてないと、芹沢は言いたかった。州波は、まるで自分から倒れ込んでくるように、いや、むしろ芹沢を誘って、自分のほうへ引き寄せたようにも思えるぐらいだった。  どちらにしてもはずみがついて、二人は足をとられ、重なりあったままソファの上に倒れ込んだ。  どうしてそういうことになったのか、芹沢にはいまもわからない。だが、横になった州波を見おろした途端、芹沢は自分の中に凶暴な何かが目覚めるのを感じた。  州波は泣いてなどいなかった。強い刺すような眼で、じっと芹沢を凝視している。その眼を見つめていると、芹沢は自分のなかに湧きあがってくるものの力を感じた。それは、健康な男が感じるごく自然な欲望だとか、衝動などと呼べるほど単純なものでない。そのことだけは芹沢にもわかっていた。  州波が無性に憎かった。ずっと自分のなかに蓄積してきた嫌悪感と、もっていきようのない憤りが、限界まで圧縮され、行き場を失って噴き出した。  しかし、そのどの感情も、たぶん州波だけに向けたものではなかったかもしれない。親友の最後の声を無視してしまったような自分への怒りも、目の前にいる州波の顔に重ねていたのではないかと、いまになって芹沢は思う。  その耐えがたいような悔しさが、女を辱め、そして自分をも|貶《おとし》めたいという行為に衝き動かしたのだと、いまの自分なら説明がつけられるのだろうか。  芹沢は、自分を抑えることができなかった。いや、自分で自分をけしかけているのがわかった。  一瞬脅えたような女の眼が、芹沢の最後のためらいを取り去った。芹沢は手を伸ばし、州波の上着を力まかせに剥ぎ取った。深くくられたノースリーブの袖ぐりから、剥き出しの両肩が目に飛び込んでくる。ブラウスにかけた自分の手が、小刻みに震えているのに気がついた。そのことが、さらに芹沢を掻き立てた。手加減をするつもりなど一切なかった。むしろ耐えがたいほど屈辱的なめにあわせたい。芹沢は州波の柔らかなブラウスをつかむと、力のかぎり引き裂いた。  短い悲鳴のような音がして、絹が裂けた。葡萄色のブラウスが大きくはだけ、濃いグレーの下着が目に飛び込んでくる。その蒼みがかった光沢のあるレースが、州波のきめ細かい肌をよけいに白く際立たせていた。  思わず目を奪われた芹沢は、いっとき次の行動を躊躇する。だが、また自分を奮い|発《た》たせるように、州波を押さえこみ、これ以上乱暴にできないほどのやり方で、女を被っていたものを剥ぎ取っていった。 「やめて」と、州波は言ったような気がする。  だが、そう聞いたのは芹沢の空耳で、何も言わなかったのかもしれない。あとになって考えると、州波はまったくの無抵抗で、芹沢のなすがままになっていたような気がしてならない。  最後の一枚に芹沢が手をかけたときだけ、州波は強く抵抗した。だが、やがて観念したのだろうか、すぐに落ち着き、そのうち脅える様子も消えてしまった。ただ身体を小さく折り、手で可能なかぎり自分を覆いながらも、眼だけは挑戦的なまでに、まっすぐ芹沢に向けている。  衣服を容赦なく剥ぎ取りはしたが、芹沢は州波に決して触れようとはしなかった。まるで、汚れたものを見るような目で、州波の裸身を見下ろしていただけだ。州波はますます身体を小さくたたむようにした。裸の膝を折り、両腕を交差して胸を抱いたまま、州波は大きめのソファの上を後ずさりする。そしてすばやく落ちていた上着を取り、身体に巻き付けた。  だが芹沢はそれを許さなかった。州波の両手首を強引につかんでソファに押しつけ、州波の上半身を開かせる。そして自分の足を使ってまた上着を剥ぎ取った。州波を被っていたものがなくなり、州波の全身は明かりの下でくの字に折れ、ことごとく芹沢の眼下にさらされていた。  芹沢は凶暴な視線のまま、州波の身体を値踏みするように見下ろした。ありったけの侮蔑と|蔑《さげす》みを、芹沢はその目にこめた。この身体の前に、何人の男が無抵抗になったのだろう。州波はそれを内心あざ笑いながら、男たちを自在に動かしてきたのだ。そしてあの明石も、州波のこの身体の前に命さえ投げ出してしまったのか。  あらためて、激しい憎悪がわきあがってくる。芹沢は女を鋭く睨み付けた。喉元から、その剥き出しの肌をたどり、できるだけ時間をかけて、侮蔑の視線を這わせる。  州波を貶めたかった。残忍なまでに醒めた頭でそう思った。芹沢は州波の顎に手をかけた。その手を逃れるために顔をそらせ、州波は耐えきれないように身体を|捩《ねじ》った。  その拍子に、州波の身体が無防備に開いた。一瞬芹沢の目が、州波の下腹部、そのなめらかで柔らかな丸みの上に、異様な何かを捕えた気がした。 「あっ」  芹沢は短く声をあげた。  緩やかに弓形を描いて横に走る、痛々しいばかりの傷跡である。赤紫色のケロイド状に、太く、|惨《むご》たらしく浮き上がり、長さは二十センチあまりもあるだろうか。州波の肌の白さが、それをよけい無惨に浮き立たせていた。まるで州波の腹に巣くい、肌を這い廻ってのたうつ醜悪な虫のように見える。  芹沢は思わず手を離し、目をそむけた。  それが、かえって州波を駆り立てるとは、芹沢もまだ気づきはしていなかった。瞬間、州波は燃えるような目を向けた。 「この傷を見たとたん、レイプする気もなくなったってわけ?」  州波の叫びが芹沢をさらに|怯《ひる》ませる。 「違う!」  芹沢はすぐに答えた。だが、それ以上どう言っていいかわからない。 「でも、そのとおりでしょう……」  哀しい声だと芹沢は思った。 「すまん」 「謝ったりなんかしないでよ。よけいみじめだわ」 「いや、そういうことじゃないんだ。もっと、つまり──」  芹沢は完全に動揺していた。そのことが州波をかえって冷静にさせたようだ。 「この傷がなければ、止めなかったんでしょう?」  自嘲するような笑いが口許に浮かんだ。 「君は、その……」  芹沢はもう州波の顔が直視できなかった。 「そうよ、私には子宮がないの。女としては欠陥人間よ」  平手打ちを受けた気がした。それほど州波の声が鋭く刺さった。精一杯の虚勢が、州波の頬を不自然にひき|攣《つ》らせている。芹沢はその顔に、州波のすべてのあきらめを見た思いがした。  自分の中でいままであんなに荒れ狂っていたものが、忽然とどこかへ消えてしまっている。芹沢は足元に落ちていた上着を拾って、州波に投げてやった。州波はそれをすぐに身体に巻き付け、クッションを背中の後ろにあててソファに座りなおした。膝を立てた裸の足を両腕で抱えた格好は、なぜか威厳に満ちているように芹沢には見えた。  芹沢は自分の上着も脱いで、ソファにではなく、カーペットを敷き詰めた床に直接腰を下ろして座りこんだ。なぜそんなふうにしたのか自分でもわからなかった。力が抜けて、その場にへたり込んだというほうが正しいのかもしれない。こうすれば直接州波の顔を見ないで済むと、無意識に思ったのだろう。まもなく、州波の声が芹沢の頭の後ろから聞こえてきた。     4 「二十一歳のときよ。梅雨の終わりのころだったわ」  州波は語り始めた。穏やかではあったが、毅然とした声だ。言葉遣いがいままでとは違っている。州波が急に身近な存在に感じられた。どんな話になるのか、想像もつかなかったが、州波を知りたいと思う気持ちが、さっきまでとはまったく異質のものに変化しているのに気づいた。 「突然、私の子宮に腫瘍ができていると診断されたの。それも、おそらく悪性のものだろうというのね。見つかったのはまったくの偶然だったのだけど、その現実をどう受け入れていいのかさえわからないほど、私は若かったわ」  まるで他人事のように州波は言った。それがかえって病気との長い歴史を感じさせる。子宮に筋腫ができるのはめずらしいことではないようだ。特に最近では三十代以上の女性の、三人に一人がなんらかの形で筋腫を持っていると言われているらしい。筋腫自体は良性で、よほどのことがない限り深刻な病気ではない。だが、それが悪性の腫瘍となると話は別だ。特に、州波のように若く発病するケースは、さらに問題で、症例も少ないのだという。 「結婚前の若い女性だということで、そのときは、子宮はほとんど原形のまま残して、腫瘍の部分だけを摘出する手術を受けたの。傷口もできるだけ目立たないように考慮したと執刀医は言ったわ。三週間ほどの入院と二カ月ほどの安静ですっかり元気になった私は、毎月一回の定期検診さえ欠かさなければ、普通の生活に戻れた。ところが、二年もたたないうちに、その検診で今度は卵巣の腫れが見つかったの。細胞診の結果、卵巣肉腫ということがわかり、腹水がたまっていると言われた。そして今度こそ子宮を全部摘出するしかなかった。あと一週間で二十三歳の誕生日を迎えるというときよ。私は一生子供の産めない身体になったの」  一度手術した傷口に沿って、再度切開したのだという。あんな無惨な傷跡になるのはやむをえなかったのだろう。州波の言葉が途切れたので、芹沢は思わず後ろを振り返った。今度こそ泣いているのではないかと思ったからである。  だが州波の顔は穏やかだった。ただ、ひとつ大きな息を吐いた。それだけのことなのに、芹沢の耳にはそれが州波の絶叫のように響いた。芹沢はただ戸惑うばかりで、黙って州波を見つめるしかなかった。こんなとき何を言えば慰めになるのだろう。  手術の直後は、州波にもよくわからなかったらしい。子宮を失うことに、はたしてどんな意味があるかなど、考える余裕がなかったのだ。生きるためには、子宮を摘出しなければならないと担当医は言った。命にはかえられないと誰もが言い、確かに州波は自分でもそう思ったのだと言う。 「辛かっただろうね」  芹沢はやっとそれだけ声に出した。 「そうでもないわ。負けるもんかって思ったもの。こんなことぐらいで、死にたくないわってね。だってまだ二十三よ。なんとしても生きていたいじゃない。子宮なんて別にどうでもいいと思っていたわ。ほかの臓器と違って、毎日の生活にどうしても必要なものでもないわけだし、大したダメージじゃないと思った」  子供が産めないことがどういうことなのか、嫌でも思い知らされることになろうとは、州波はまだ考えることもなかったという。だが、その日は思いがけないほど早くやって来た。 「元気になって間もなく、私はある男性を好きになったの。彼も私をとても大切に思ってくれた。当然のように、二人は強く結婚を望んだわ。周囲の反対もなく二人は婚約し、相手の実家のある京都の古いしきたりにそって、|厳《おごそ》かな結納を交わしたのよ。日本の伝統が息づいている場所で、古風に暮らすことに無心に憧れた私は、嬉しくてしかたがなかった。私たちはそのまま結婚して、幸せになれると信じていた」  長い間しまい忘れていた包みを開くように、州波はゆっくりと言葉を選んで続けた。 「ところが、そうはいかなかった」  結婚式まであと二日という日になって、突然相手から一方的に婚約破棄が言い渡されたのだ。州波は動転した。最初はわけがわからなかった。相手からは何も、はっきりとした理由が告げられなかったからだ。だが、男を問い詰めてみると答えは明確に返ってきた。明確過ぎて、州波には返す言葉さえなかったという。  相手の両親が、州波の身体のことを知ったのがその理由だった。特に隠していたつもりはなかったが、子供が産めないことなど、それほど大きな問題だとは思ってもいなかった州波は、とりたてて話すこともないと考えていたのだ。 「私は若かったし、世間知らずだったのね。子供ができないことを理由に結婚を反対されるなんて、夢にも思っていなかったのですもの」  相手の実家は、代々続いた京都でも指折りの商家で、男はそこの一人息子だった。結婚して子供を作り、家業を次代に継承することこそ、その家に生まれた息子にとっての何事にもかえがたい役目だった。 「それでも彼は、どうしても私と結婚すると言い張ってくれたのよ。だけど、彼のお母さんが、私が近くにいることを知らずに、彼にこう言うのが聞こえたのよ。『ほかに、もっとまともなお人がぎょうさんいはるのに、なにも好き好んであんな傷のある人をもらうことないやろ』ってね。私は『傷のある人間』なんだって、『まともな人』じゃないんだって、そのとき初めて知らされた──」 「もういいよ。そんなこと俺なんかに無理して話すことはない」  芹沢は思わず叫んでいた。やっと口にできた、精一杯の言葉である。この部屋に来たとき、まさかこんな話を聞くことになるとは思いもしなかった。だが、もうこれ以上州波を傷つける権利など自分にはない。 「いいえ、あなたには聞く義務があるわ」  傷跡を見てしまったからには、途中で逃げたりするなと、言いたかったのだろうか。芹沢はそれ以上何も言えなくて、また口を閉ざすしかなかった。 「世の中にはどうしようもないことがあるのよね。自分がいくら努力しても、どうしてもだめなことよ」 「君が子供を産むのは無理にしても、彼のほうが子供をあきらめることはできただろう?」  なんとかして州波の救いはないものだろうか。芹沢はそう思っている自分自身が不思議にも思えてくる。 「だめなの。五百年も続いたという旧家を、自分の代で潰すことはどうあっても許されないのだと彼は言ったわ」  一人息子だった男は、生まれたときから家を継ぐのだと言われて育ち、そのことを考え続けて大人になったのだという。父親も耐え、祖父も耐え、そのまた先代も耐えてきた。だから、せめて自分が息子を作り、その子にあとを継がせるまでは、決してここを逃げ出すことはできないのだと、男は泣いた。 「まだ二十三のときよ。そんな若さで、私は自分の現実を思い知った。そしてそれ以来、私は結婚なんて二度と考えないことに決めたの」  州波はことさら平然としていた。芹沢は立ち上がって、自分が脱いでおいた上着を拾い上げ、州波の肩からかけてやった。ここにも、人生の早いうちに挫折を味わった人間がいる。それはまるで昔の自分の姿だった。できればその肩を上着の上から抱いてやりたい。だが、その行為は、さらに州波を傷つけるだけなのかもしれない。  いま芹沢の目の前にいるのは、本当にあの州波なのかと思えてくる。何もかも揃っていて、自信たっぷりで、人を人とも思わないような、高慢なあの州波なのだろうか。 「それから五年ぐらい後だったかしら、偶然出会ったのが明石さんだった」 「え、あいつとはそんなに古いつきあいだったの?」  思いがけない話だった。芹沢は、州波が何かの目的のため、意図的に明石に近づいたのだと思い込んでいたので、二人の関係がそれほど長いとは想像もしなかった。  京都の男と別れたあと、州波はすぐにニューヨークに渡ったようだ。二度と日本には帰るまいと心に決めた渡米だったという。 「最初に会ったのは、|世界貿易《ワールド・トレード》センターの本屋さんだったの。道を訊かれたのが最初だったと思う。ニューヨーク支店に赴任したばかりで、心細い思いをしていた明石さんは、日本人の私を見つけて声をかけてきたのね」  その本屋は芹沢も知っている。ビルの一階にある小さな本屋である。ダウンタウンの金融機関に働く人間達が、通りがけによく立ち寄る店だ。州波が渡米後五年目を迎えたころのことだった。  その後も何度か、同じ本屋で見かけるたびに毎回声をかけてきて、明石はいろいろなことを訊ねたらしい。州波も、職場に日本人がいなかったせいもあって、日本語で話すことが懐かしかったのだろう。 「彼はとても気さくで、ちょっと調子のいい若者みたいな雰囲気だったの。それでもどこか放っておけない気がしたのは、最初見たとき、どこか弟に似ているような気がしたからかもしれないわ」 「君には弟さんがいるのか?」  芹沢にとっては初耳である。 「一人いたのよ。四歳違いだったから、あなたや明石さんより、もうひとつ年下ね」 「亡くなったのか?」 「事故でね。まだ大学生だったわ」  辛い話を思い出させて悪かったと、芹沢は謝った。何か事情がありそうだとも感じたが、それ以上は訊けなかった。州波は軽く首を振っただけで、また話を続けた。 「明石さんとは、そのうち連絡しあって会うようになり、たまに仕事の帰りに待ちあわせて食事に行ったり、まるで学生時代みたいで楽しかった。もちろん明石さんは結婚していたし、だからどうということもないような他愛ないつきあいだったの」  州波はどこか遠くを見るような目をして、語り続けた。  そんな二人がやがて友人でもなく、ましてや姉弟のようなつきあいでもなく。一人の男と女になったときのことを、州波はいまでもはっきりと思い出すことができる。  明石は最初から、州波の周囲にいる男達とはまるで違っていた。それまで州波の周囲にいた人間は、巨額の資金を運用する大手投資家や、組織の中で上ばかり見ている男達だった。他人を小馬鹿にし、傲慢なほど自信に満ちた野心家ばかりである。そんな中で見る明石という存在には、州波は戸惑うことばかりだったような気がする。  まったく無防備といいたいほど、明石は自分の弱さを隠さなかった。康和銀行の中では、同期入社の間でもトップの昇進をしているらしいのに、仕事で失敗をしたことや、壁にぶつかっていることなど、なんでも州波に打ち明けてしまう。むしろ自分の弱さを自慢しているのではないかとさえ思えるぐらいだった。そんなことまで言わなくてもいいのにと、州波は明石をたびたび異人種を見るような目で見た。 「どうしてそんなに私を信用するの。そんなことまで打ち明けて、大丈夫なの?」  そう言って、州波はよくたしなめたものだった。同じ金融業界にいるというのに、明石には警戒心というものがまるでなかった。仕事上の問題も、自分の知識不足も、明石はまるで恥じることがないように口にした。  ニューヨークのビジネス社会で、自分の弱さを見せるのは自殺行為である。たとえ欠点があっても、誰もそれを正直に見せたりする者はいない。自分の功績をアピールし、自分の失敗を極力隠し、相手を威圧し、蹴落とさなければ生き残れない。州波の周囲にいたのはそんな男達ばかりだった。  いや、男だけでなく、州波自身もそうやって生きてきたのだ。そうでなければ生きてこられなかった。負けられなかった。二度と傷つきたくはなかったからだ。  それなのに、明石は不思議な男だった。自分の弱さを武器にする術を知っている。そうやって一見無防備なまま、相手の中に、知らない間に入り込んでいくのである。強要されたわけではないはずなのに、気がつくと、いつしか州波は、多くの情報や自分が血を吐く思いで|培《つちか》ってきた知識を、明石に惜しげもなく分け与えていた。  あれは、セントラル・パークの木々もすっかり落葉し、空気までが凍ってしまいそうなほど寒い日のことだった。二人が初めて出会った日から、すでに二年半がたっていた。  仕事を終えた金曜日の夕方、久しぶりに会った二人は、その秋話題になっていたビルの高層階のレストランで夕食を楽しんだ。  食事のあと、レストランを出てエレベータで下に向かったときは、適度なワインの酔いと、心地よい会話の余韻が残る、いつもと変わらない夜だった。エレベータの中で二人の指先が触れあったのは偶然のことだ。ほんの一瞬軽くぶつかったというだけで、特別なことではないはずだった。  だが、その夜はいつもと違っていた。手を伸ばしたのはどちらが先だったのだろう。気がついたら指先が絡みあい、次の瞬間二人は手を繋いでいた。出口から一番奥にいた二人は、繋ぎあった手を隠すようにして、黙ったままで立っていた。寄り添った州波の肩に、明石の胸の温かさが伝わってきた。  明石の手に力がこもっていくのを感じた。州波は自分の激しい鼓動が、明石にも聞こえているように思えて、顔をあげることができなかった。  途中の階で人が降り、二人だけになった瞬間、州波が明石をじっと見た。そして誰もいないエレベータの中で、明石は州波を抱き締めた。  まるで、それまでの二年半の間、ゆっくりと時間をかけて発火点に達したものに、一瞬にして火が点いたようなものだった。そうなってみると、いつも礼儀正しく、姉弟のように過ごしてきたことのほうが不自然に思えるぐらいだった。  しかし、明石がそれ以上を望んでも、州波はそれを拒み通した。当時まだ子供がいなかった明石と慶子の夫婦は、別段問題があったわけでも不仲だったわけでもなかった。  明石は、一週間のうち二度も三度も会いたがった。そしてずっと二人で一緒に過ごしたのだ。急速に深まった二人の関係は、もう片時も離れていられないほどにまでなった。それまで姉と弟のように接していられたのが、不思議なくらいだった。だが二人には、どうしても必要な助走期間だったのかもしれない。そしてそういう時間を経ているだけに、よけいにお互いを理解し、求めあうようになったのだろう。 「だけど、私はどうしても彼をそれ以上受け入れられなかった。だって二度と傷つきたくなかったもの。ただ、生きていくことなんて、どのみち独りなんだと思っていた私が、明石さんのおかげで初めて、それほど悪いことばかりではないんだなと思えるようになったことだけは確かだったわ」  芹沢は、はっとして、州波を見た。大学受験に失敗して、浪人生活をしていたころの自分を思い出したからだ。日本で大学に行くのをあきらめて、逃げるようにアメリカに渡ったとき、芹沢はやっと地獄から這いあがれると思ったものだった。 「あるとき、私は苦し紛れにこう言ったの」  明石が、東京の本店からやってきた役員達を案内して、シカゴの証券取引所に出張したとき、滞在しているホテルから、州波の部屋に電話をしてきたのだという。 「そんなに私が大切だっていうなら、それを私にわからせてよ。いますぐ私に会いに、この部屋まで戻って来てよってね。無理なことは百も承知よ。役員連中を連れた出張から、明石さんが帰って来られるわけがない。それを知っていたからこそ、私は無茶を言ってみたのね。海外支店に赴任中の銀行員にとって、本店からやって来る役員達の世話をすることは、嫌でも避けられない大切な仕事だということも、明石さんから何度も聞かされて知っていたのですもの」 「あいつ、来たのか?」  芹沢は思わずそう訊いた。州波は大きくうなずいた。 「信じられないでしょう。本当にあの人帰って来たの。頭取や常務をシカゴのホテルに放ったままでよ。私ったら、自分で言っておきながら、どうして帰ってきたのってあの人を責めたわ。そんなことしたら、仕事もなにも滅茶苦茶ですもの。私が彼の立場なら、絶対にそんなことしないと思った」  明け方近くになって、ドアの前に明石の姿を見つけたときは、州波は身体が震えたという。 「ひどいことをしたとすぐに後悔したわ。完全に私のルール違反ですものね」  そう言いながらも、州波がどれだけ嬉しかったか、芹沢には想像できるような気がした。そして、もう明石を拒む理由がなくなったと感じたに違いない。 「明石さんと会えて、私は救われたの」  州波を見ながら、芹沢はただうなずいていた。州波に対する自分の思い込みが、これまでどれだけ偏ったものだったかを、あらためて知る思いがした。 「だけどそんな日は、そう長くは続かなかったわ」  州波は顔を曇らせた。別離はすぐにやってきたようである。芹沢は、明石と最後に会ったときのことを思い浮かべてみた。どんな別離があったのかわからないが、別れたあとも、明石だけはずっと州波のことを支えに生きてきたというのだろうか。もしかしたら明石の死の原因も、そのあたりにあったのかも知れない。芹沢は二人のことをもっと詳しく知りたいと思った。  州波のもとに明石から突然手紙が届いたのは、二人が結ばれたあと、まだ三カ月しかたっていない日のことだった。州波はついに三十歳になり、明石がまだ二十七歳だったころのことである。  いったん境界を越えた二人の心は、たちまちのうちに燃え上がり、激しいまでに高まった。お互いの渇きを癒すように会い、会って別れた途端にまた会いたくなった。このまま行くと、いつか自分は明石を独占したくなる。州波は自分が怖かった。  そんなころ、明石から初めて届いた手紙だった。州波はある予感めいたものを感じながら、封を切った。 『君には言わないでおくつもりだったけれど、でもやっぱり話すことに決めました。こういう事態になることを、予想したこともなかったので、自分でも本当に信じられない思いです。しかし、これは事実です。この週末、わが家にあることが起きました。実は妻が妊娠したのです』  明石の手紙には乱れがなかった。がっしりとした体格からは想像できないほど、線の細い神経質な文字が、一字の間違いもなく続いている。  妻とは幼なじみで、結婚しても子供に恵まれなかったが、かといって特に不満だったわけではなく、ずっと子供のいない夫婦として、これからも暮らしていくつもりだったと書いてある。州波との関係が始まってからも、明石は妻と別れて州波を選ぶなどということは、ただの一度も口にしたことはなかった。  出会った最初のころ、州波は相手が誰であれ、結婚はしないつもりだと断言してあった。州波の気持ちが本当はどこにあるのかということを、明石がわかっていたかどうかは知るよしもない。  明石の手紙からは、以前一度流産をしたことのある妻をかばって、今度こそは大切にしてやりたいという思いが伝わってきた。つまりは妻と子供との生活を大事にするため、州波とは別れるということなのだ。  州波は茫然とするしかなかった。 『僕は混乱している。しばらく考えさせてくれないか』  明石の手紙はそんな言葉で終わっていた。別れたいという言葉が書かれていたわけではない。だが、そのことがかえって州波を絶望的にした。そしてその手紙を残したまま、康和銀行の本店勤務の辞令が出たのをきっかけに、明石はニューヨークを離れ、妻と二人で帰国して行った。  またか、と州波は思った。  子供というものがまたしても目の前に立ちはだかった。子供という存在のために、みずから進んで別れを受け入れるしかなかった。生命の誕生の前には、州波は完全に無力だった。自分の努力だけでは、どうすることもできないことが、この世には存在するのだ。だからこそ、明石を責めることも、引き止めることもしなかった。  明石とあれほど何度も愛を交わし、あふれるほどに注がれながら、自分の身体が決して実を結ばないあだ花だったことを、これ以上ないほど残酷な方法で思い知らされた気がした。 「君はどんなときも、僕にはいちばん身近な人だったよ。最高のパートナーだといまでも思っているんだ。それだけはわかってほしい。だけど、子供ができた以上、僕は妻を放っておくわけにはいかない」  そうは言ったが、明石は決して謝ったりはしなかった。州波にとってそれはどこか不満でもあったし、救いのような気もした。 「わかっているわ。あなたは間違ってはいない。正しい選択をしたのよ」  州波はそう思い、明石を責めたりはしなかった。なぜそうしなかったのだろう。どうして自分には明石の気持ちが理解できるなどと思ったのだろう。だが、州波は、完璧なまでに無抵抗だった。  初めて明石を迎え入れたとき、自分は明石のすべてを受け止めようと決めたのではなかったか。ならば、明石の悩みも、問題も、明石が背負うすべてのものを、そのまま受け止めなければならないはずだ。それがたとえ思いがけない運命であったとしても、あるがままに受け入れるしかない。州波は、自分自身を必死で納得させた。  帰国準備で忙しい明石に、最後に一目だけ会ったとき、別れる間際に明石は言った。 「仕事頑張れよ。君は仕事のできる人なんだから。どこにいても、僕はきっと君を応援しているから」  州波は精一杯笑ってうなずいた。 「──ルール違反が許されるのは、一度だけですものね」  小さくつぶやいてみたが、明石にわかるはずはなかった。いつかのように、出張先のシカゴから役員をおいて帰ってくるのとは訳が違う。いや、もしあのときのように頼んだら、明石は妻や生まれてくる子供を捨てて、自分を選ぶ決心をしたのだろうか。  明石が去ってしまったあとのニューヨークには、仕事しか残っていなかった。州波にあったものは、やりきれないような敗北感で、明石の言葉通り、州波はそのあとひたすら仕事にだけ集中した。仕事に没頭している間だけは、何もかも忘れていられるからだ。  仕事が残されていたことに、どれだけ感謝したことだろう。敗北感から立ち直り、自信を回復させてくれるものが、あのときの州波にはどうしても必要だった。  女であることも、そして結婚も、二十三歳のときにすべて捨てたはずだ。自分は、女として生きるようには生まれてこなかったのだ。州波はそう自分に言い聞かせた。自ら進んで困難な仕事を選ぶようになり、忙しさのなかに埋没した。  仕事は少しずつ明石との別離の痛みを麻痺させ、州波はいつのまにか三十七歳になっていた。そして望みどおり、ついに|取  締  役《マネージング・デイレクター》にまで上り詰めた。その昇進が発表になった記念すべき日に、まさかまたあの明石に再会するなどとは、誰が予測し得ただろう。     5  明石との別れのいきさつも、七年間のブランクについても、芹沢に話すつもりはなかった。自分の弱さは、誰にも見せないで生きてきた州波である。 「明石さんが二度目に康和銀行のニューヨーク支店に赴任してきたのは、いまから五年前のことよ。私はそのときもう三十七歳で、彼も三十四歳になっていたわ」  州波は芹沢にさりげなく言った。  そのころ州波はモーリス・トンプソン証券の本社で、すでに確固たる地位を築き始めていた。それにひきかえ明石は、新しくディーリング業務を始めたばかりで、慣れない相場の仕事に苦慮していた。 「思いがけなくディーリングなんかやるようになったものだから、はっきりいってまいっています。まさかまたニューヨークに舞い戻って、こんなことをさせられるようになるとは思っていなくてね。あなたはこの世界では大先輩なんだから、これからよろしく頼みます。いろいろと教えてもらえると助かります」  明石は一緒にいた同僚に州波を紹介し、彼らの手前、丁寧な口調で挨拶をした。七年という歳月は、二人を適度に冷静にさせてはいたが、過去を完全に消せるほど長くはない。  同僚達が先にその場を離れ、二人だけになったとき、明石はすっかり昔の口調に戻って言った。 「会いたかったよ、州波」  その短い言葉だけで十分だった。七年もの間、まるで完全に葬り去られていたような二人の関係を、その一言だけでもとに戻してしまった目の前の男を、州波は食い入るように見つめていた。 「一週間前、こっちへ着いた日から、僕は毎日モーリス・トンプソンの前をうろうろしていたんだ。君が今日こそこのビルから出てくるんじゃないかと思って、ドキドキしながら歩いていたよ」  そう言って、自分をじっと見つめた明石の目が、州波のすべてを変えた。七年前の敗北感も、その後の長い日々も、一瞬にして消えてしまった。二度と人を好きにはならないだろうし、誰かと一緒にいたいと思うこともないだろうと思っていた州波が、明石と再会した途端に簡単に変わっていく。心が、身体が、哀れなぐらい素直に反応する。州波はそんな自分に驚いていた。  やがて二人はまた密かに会い、一緒に時間を過ごすことになる。ただ、前回と違っていたのは、州波の存在が、明石にとって仕事上でも、なくてはならない存在になっていたことと、もう一つは、明石と妻との関係が、以前よりずっと冷めたものになってしまっていたことだった。 「私は彼をずいぶんサポートしたのよ、仕事上ではいろいろな情報をあげたし、ずいぶん便宜も図ってあげられた。いろんな資料を貸してあげたり、明石さんのほうからアドバイスを求められたりもしたわ」 「あいつは、人にものを教えてもらうのが上手だったからな。子供のころからそうだったよ。なぜか放っておけない気にさせる」  芹沢は思わずそう言った。 「その通りよ。自分で苦労して覚えなきゃだめよって言いながら、気がつくと、つい私のほうから手を出してしまうの。彼って人に甘えるのがうまいのよね。そういうところも弟によく似ていたのかもしれないわ。相手にはそれと感じさせないで、人の心の中にすっと入って来るのね。私が自分で苦労して得た知識や経験を、明石さんはこんなにたやすく、しかも当然のように手に入れようとする。そう思うと悔しい気もした。でも、結局私は明石さんの助けになれるのが嬉しかった。彼から頼りにされると、そんな自分が誇らしかったわ。仕事をずっと続けていてよかったと心から思えた」  最初明石は、トレーダーとしてはかなり未熟だったという。市場に関する知識も経験もまるでないのに、ひどく無謀な取引をして、州波をハラハラさせたようだ。そのたびに毎回州波に相談を持ちかけ、助けを求めたのである。だが州波は、話を聞いているうちに、かばいきれなくなり、ついに明石を責めたことがあったらしい。 「どうしてそんなことをするのって、私本気で尋ねたのよ。だって、あんまり無茶なことばかりしようとするから、そんなことをしていると、すごい|損失《ロス》を出すのが目に見えていたんですもの」  完全に負けが決まったような相場状況の中で、不確かな相場知識しかなく、信頼できる情報ソースも持ちあわせないのに、まだ大きくリスクをとって攻めて行こうとする明石を、州波はどうしても黙って見ていられなかった。 「私は見かねて言ったわ。あなたは市場の怖さを知らないのよって。本当に大声で怒鳴りつけたの。自分から大損をしに行くつもりなのってね。銀行の資本を勝手にリスクにさらして、損失を与える権利なんて、あなたにはないでしょうとまで言ったわ。そしたらね、彼はしばらく考えたあと、ついにとんでもないことを言い出したのよ」  州波はそう言って、思いがけないことを話し始めた。それによると、康和銀行のニューヨーク支店には、歴代の担当者によって隠し通され、長年にわたって累積されてきた、市場取引による損失が存在していたというのである。 「いちばん最初は一九八三年のことだったそうよ。値動きの少ない|変《フ》|動利《ロー》|付き《タ》|債《ー》の取引におけるごく初歩的な失敗で、そのころの損失額はまだ十万ドル程度のことだったの。日本中の都市銀行が、ジャパン・マネーの上にあぐらをかいて、先を争って国際金融市場に手を染めていった時代ですもの。当時は日本の大蔵省も、海外資産の積み上げを奨励していたのね。初代のトレーダーが見よう見まねで債券市場に手を出し、失敗したとしても無理のないことじゃないかしら」  ところがその担当者は、損失をそのまま計上しないで、相場で損を取り戻し、穴埋めすればいいのではないかと考えた。思えばそれがすべての悪夢の始まりだった。損失をカバーするために必要な儲けを出すには、値動きの少ない債券の売買では時間がかかりすぎる。短期間で大きく儲けるためには、値動きの激しい固定金利債の取引がいいと考えたのである。  値動きが激しく、うまくいったときに大きな収益が見込める固定金利債は、その分リスクも大きく、慣れない人間には危険きわまりない市場である。それがどれほど無謀で危険なことかという自覚もないまま、相場の損を相場で取り戻そうとした最初の担当者は、結果的に損失額をさらに増やすだけで終わった。  不運だったのはその後任者で、同じ銀行の人間とはいえ、他人から無理やり受け継がされた隠れ損失を、なんとか取り戻そうと努力した結果、やはりまた損失額を増やしただけで任期を終えた。 「まったく信じられないことよね。まず、そんなふうに先任者の作った損失を、担当部署全体の問題として後任者に受け継いでいくこと自体、日本の銀行じゃなければ考えられないもの」  州波は驚きを隠せなかったという。だが、事態はさらに悪化した。秘密裏に行なわれる無理な行為ゆえに、最初から限界があった。損失額は雪だるま式にふくらんでいく。三人目の担当者は一旦は市場環境の良さに乗じて、損失額を半分にまで減らすことに成功したものの、そのあと気を良くして大きく勝負に出たことで、結果的には損失額を三倍にするという愚行に終わった。 「だいたい、相場で毎回完璧に勝ち続けることなんて、絶対に無理よ。一回か二回、とんでもない額の夢みたいな大儲けをすることより、十倍、いえ百倍難しいことだわ」  だが、歴代の担当者としては、とにかく利益をあげて、損失を早く回収することが何ごとにも優先させるべき急務だった。 「当時の康和の上層部には、昔ながらの『国内派』と対立するように、積極的な海外進出を謳い文句に勢力を伸ばしてきた、『国際派』とよばれる派閥が誕生していたのね。護送船団と言われる銀行業界のなかで、他行に遅れてはなるまいと、やっきになって始めた国際金融ビジネスですもの、なんとしても好収益をあげ、時代の先端をいくような華やかな存在として、国内派より優位に立っていなければならなかったのよ」  その裏では、ニューヨーク支店での損失をひた隠しにし、たまにうまく利益をあげられたときはこれみよがしに誇張して喧伝したという。 「対抗する国内派の勢力を抑え込むためにも、一日も早く損失を取り戻すこと。そしてそれまでの間は絶対に損失を隠し通し、表面化させないこと。それが国際派にとっての何よりの重要事項となったわけよ」  隠蔽工作として、あらゆる手段が講じられた。本支店間の虚偽の取引を|捏造《ねつぞう》したり、顧客から預かっている債券を黙って売り飛ばし、損失の|補填《ほてん》にあてる方法。あるいは海外の|非課税地域《タツクス・ヘヴン》に海外現地子会社を設立し、その会社との架空取引を画策して、損失を付け替えるという事務処理、つまりは「飛ばし」という不正行為などである。  康和銀行のニューヨーク支店にとって、公然の秘密とも言うべき累積損失額は、かくして五人目の担当者となった明石に引き継がれることになった。だが、当事者の明石が、そんな国際派の裏の実情を知らされたのは、ニューヨーク勤務の辞令が降り、着任した後のことだった。 「それまでずっと、明石さんの出世は順調だったそうよ。同期のトップだと言っていたもの。再度ニューヨークに赴任して来たときも、確かに異例の出世だったらしいわ。彼は自信満々で赴任して来た。だからこそ、よけいにショックだったのね」  明石が赴任後、間もなくニューヨークを訪れた森副頭取は、これまでの事情を説明し、明石の手腕に多大な期待を寄せていると、肩を叩いた。ニューヨーク支店長として、日銀からやって来た当時から敏腕を振るい、国際派のリーダーとなって、なにかと海外拠点の強化を推進してきた森にとっては、ニューヨーク支店の汚点とも言うべき隠し損失は、なんとしても目障りな存在だった。  とくに最近になって、同じような損失隠蔽工作を行なっていた他行の事件が表沙汰になり、ついにはアメリカからの撤退を余儀なくされたことが、森の不安を強く駆り立てたのである。  最近の米国市場の活況を利用して、積極的な市場取引による収益で損失をカバーし、長年の問題を早急に解消するようにとの至上命令を出すのは、森にしてみれば当然のことだった。 「ばかげてるわよね。市場を甘く見過ぎている。相場の損を相場で取り戻すことの難しさは、それまでの経緯をみても胆に銘じてわかっているはずじゃないの。それなのに長年の損失をきっぱり損切りするだけの勇気もなく、正直に公表する義務すら、最初から頭にないのですもの」  芹沢が明石と最後に会ったとき、トレーダーとして、かなり大きな金額で取引をしているようなことを少しだけ漏らしていたのを思い出した。だが、あまり仕事の話には触れようとせず、最近凝っているというパソコンの話ばかりしていたのも、実際には裏でそんな事態に直面していたことが原因だったのかもしれない。芹沢はそれを思うと、いたたまれない気持ちになってくる。 「かわいそうに、明石はそんな他人の悪事の後処理のために、ニューヨークに行かされたのか。あいつがそんな難題を抱えていたなんて、いまのいままで想像もつかなかったよ」  明石がどれほど追い詰められていたかを思うと、哀れでたまらなかった。 「え、嘘。あなた何も知らなかったというの?」  芹沢の表情を見て、驚いたのは州波のほうだった。 「だってあなたは、明石さんから事情はみんな聞いて知っていると言ったじゃない。だから私は話したのよ。あなたが聞いていなかったのなら、こんなこと、決して誰にも話すつもりは……」  州波はそう言いかけて、ハッとしたように芹沢を見た。 「まさか、明石さんから手紙を預かったというのも嘘じゃないでしょうね?」 「悪かった。だが、そうとでも言わなければ、君に直接会って話を聞き出せないと思ったんだ」  州波の顔つきが一変した。 「明石の死の原因をどうしても知りたかったんだよ。そのためには、どうしても君に会う必要があったから──」 「冗談じゃないわよ。いったい何だと思っているの。やっと最後の切り札が見つかったと思って喜んだのに。探して探して、とうとう見つかったと思ったのよ。それがすべての鍵だとわかって、それさえ見つかれば、うまく行くと、やっぱり明石さんは、私にそれを託してくれたんだと思って、嬉しかったのに……」  州波の落胆ぶりは、芹沢の想像をはるかに超えていた。だが、州波はすぐに顔をあげ、まっすぐに芹沢を見た。 「あなたの言葉を信じるなんて、私がどうかしていたんだわ。そうよ、最初から誰にも頼るつもりなんかなかったのよ。それなのに、あなたがあんなことを言ってくるから、つい私は……」  まるで自分自身に強く言い聞かせているようだ。 「嘘を言ったことは悪かった。謝るよ。だけど、その鍵になる手紙とは何なんだ。君はいったい何をしようとしているんだ。教えてくれないか。それもみんな明石のためなのか?」  芹沢は必死だった。だが、州波の耳には何も届いていない。黙ってソファから立ち上がり、州波は歩いてバス・ルームに消えた。やがて、まもなく新しいパンツ・スーツに着替えて出てくると、さっきまで肩にかけていた芹沢の上着を差しだした。 「さあ、早くここから出ていって。あなたがしたことはもう忘れてあげる。だから私の前から消えてしまって。もう二度と私の前に現れないで」  まるで別人のようだった。いや、下のラウンジで会ったときのように、感情を完璧に消し去ったような、無機質な顔に戻っている。自分の過去や明石とのいきさつを話してくれたときの、あの親密さはすでにもうどこにもなかった。 「頼むよ。ひとつだけ教えてくれないか。明石はその損失隠しのために自殺したのか。自分で自分の口を封じたのか?」  だが、州波は決して口を開こうとはしなかった。 「お願いだ。知っているなら教えてくれ。明石がなぜ死ななければならなかったのか。俺はどうしても知りたいんだよ。それに、いったい君はこれから何をするつもりなんだ。君が必死で探している明石の手紙というのは何なんだ?」  州波は自分から先にたって、ドアまで歩いた。 「いいから帰ってください」  振り向いた州波は、表情すら変えなかった。 「わかってくれよ。俺はあいつが死んだわけをどうしても知りたいんだ。最後に会ったとき、俺はあいつの気持ちをわかってやれなかった。あいつは、飛び降りる直前にも、俺に連絡をくれたんだ。それなのに、俺は自分のことで精一杯で、あいつを見殺しにしてしまった。あいつが死んだのは俺のせいなんだよ」  芹沢は全身から言葉を絞り出した。どうにかして、州波に伝えたかった。 「──あなたがそんなに思うのなら、自分の力でそれを突き止めればいいじゃない。明石さんの死を本気で考えるのなら、自分で行動を起こすしかないのよ」  芹沢は、はっとして口を閉ざした。その言葉からは、冷たさというより、むしろ州波自身がおかれている状況の厳しさが感じられたからだ。州波の眼の奥に、自分と同じ苦悩を見たような気もした。 「わかったよ。もう頼まないよ。だけど、これだけは聞かせてくれ。モーリス・トンプソン証券が康和銀行を潰そうとしているのも、明石の自殺に関係があるのか?」 「うちの会社が康和銀行を潰そうとしているですって?」 「隠しても無駄だ。俺はみんな知っているんだ。君が大蔵省の宮島審議官と会っているところも、スティーヴン・ロビンソン三世が、君のホテルの部屋に入るところも見ている。それから、うちの銀行に康和銀行との業務提携の話を持ち込んできた、パシフィック・コンサルティングの役員名簿に、君の名前があることも知っている。君があそこのオフィスにいるところを見たという人もいる。すべてはモーリス証券の意図的な操作じゃないのか」  脅迫するつもりはなかった。ただ、州波の秘密をつかんでいると言えば、態度が変わるかと思ったのだ。何より、州波がうろたえるところを見てみたかったのかもしれない。だが、州波は突然笑いだした。おかしくてしかたがないような顔だ。 「笑ってごまかそうとしても無駄だ。俺はこの目でしっかり見たんだから」  芹沢は憮然とした顔で言う。 「ごまかす気なんてないわ。嘘だと言うつもりもない。あなたの言う通りよ。宮島ともロビンソン三世とも、あなたの想像通りの関係よ。彼らは私に夢中だし、私の言いなりだわ。ただし、それとモーリス証券とは無関係。あなたがどう考えようと勝手だけれど」 「じゃあ、そのことと明石が死んだこととはどうなんだ。関係あるのか?」  芹沢はそれだけは訊きたかった。 「もう帰って。これ以上あなたに話すことは何もない」  州波は芹沢をドアのところまで急き立てた。 「わかったよ、帰るよ。だけど忘れないでくれよ。君のことを、俺が誰かに話すことだって可能なんだよ。そうなったら君は困るんじゃないのか。俺を味方にしておいたほうが得だろう」  そんなことを言うつもりではなかったのにと、芹沢は思った。だが、どうあっても心を開いてくれない州波を、もはや説得する方法は浮かばなかった。 「今度は私を脅すつもりなの。もうたくさんよ、出ていって」  芹沢は背中を押されるような思いで部屋を出た。  廊下に出ると、まるで人の気配はなかった。エレベータまでゆっくりと歩き、上がってくるのを待つ間、部屋のなかで起きたさまざまなことが浮かんできた。州波から誤解されたままなのが気になる。もっとありのままの自分を伝えたかったのに、よけいに誤解させたことが悔やまれた。明石の死に対する、自分の思いをなんとかわかってもらいたい。  そこまで考えて、芹沢は自分の州波に対する感情が、これまでとはすっかり変わっていることに気がついた。     6  芹沢が部屋から出ていったあと、州波は窓辺に立ち、ずっと外を見ていた。  目の前の夜景が、まるで画面のなかの映像のように感じられる。ここにいる自分自身もまた、その映像のなかのただの一部にすぎないのかもしれない。  芹沢に乱暴されかけたことも、あんな古い話を思い出したことも、画面上に|再生《リプレイ》された短い物語の一部のようで、いまとなっては実感がなかった。  自分の過去を人に話す気持ちになったのも、考えてみれば不思議な気がする。いままで誰にも言ったことのない話を、どうして芹沢には全部打ち明ける気になったのだろう。 「どうかしてるわ」  州波は声に出して、つぶやいてみた。  着ていた服をむりやり剥ぎ取った芹沢は、別な何かも一緒に剥ぎ取ってしまったというのだろうか。州波はあのとき、自分がひどく素直な気持ちになっているのに驚いた。いったん封印を解かれた州波の過去は、いっきに水かさを増した雪解け水のようにあふれ、州波自身をも押し流してしまいそうだった。  そして、自分のなかの奥深い場所で、長い間州波を縛りつけてきた記憶は、芹沢に語って聞かせた瞬間、色を失ったような気もしている。  州波は靴を脱ぎ、出窓に上がり込んだ。冷たいガラスに寄り掛かり、膝を抱えて、眼下に広がる夜景を見た。闇のなかに点在する|夥《おびただ》しい数の光は、その一つ一つが、そこで繰り広げられている人間の営みの証しなのだ。このなかに、いったい何組の男女がいるのだろうか。ぶつかりあい、いたわりあい、出逢ったり別れたり。どれだけの男が真剣に女と向きあい、何人の女が生命を賭けて男に|対峙《たいじ》しているのか。  州波は、明石と最後に会った夜を思い浮かべた。  晩秋の、凍えそうなニューヨークの夜。それが明石との最後になるなどとは、どうして州波に予測できただろう。言うつもりのなかったことまで口走って、明石を怒らせたまま別れてしまったあのときのことを、州波はいつになったら忘れることができるのか。  あの夜の州波はいつになく苛立っていた。翌朝早くにニューヨークを発ち、フランクフルトへの出張をひかえていたからだ。|ドイツ連銀《ブンデス・バンク》の気難しい要人と、したくもない話をしに行くのは、いつにもまして気が重かった。  もしも、あれっきり明石と会えなくなるのがわかっていたら、もっといくらでも優しくなれたはずだ。少なくともあんなに明石を責めたりはしなかった。なのに、あのときの州波は、自分の苛立ちをぶつけるように、数日前から何度もむし返してきた話を、また持ちだしたのだ。 「あなたがしていることは、もうすっかりみんなに知られているのよ。相場の流れに逆らってむやみに|建玉《ポジシヨン》をふくらませ、ばかげた|損失額《ロ ス》を増やし続けていることも、みんなとっくにわかっているわ。見つかったら犯罪なのよ。康和銀行の監査や、日本の金融当局の目はごまかせても、こちらのプロ達の目はごまかせない。ばれたらとんでもないことになるのよ。米系のブローカーの人間のなかに、隠れてあなたのことを噂している人がいるのを聞いたんですもの」  州波はなんとしても止めさせたかった。明石の話を聞いているかぎり、銀行の上層部に罪の意識がないらしい。どこの銀行でもやっていることだという、安易な認識しかないのだ。それならなおのこと、明石を犯罪者にはさせたくなかった。 「本店の資本力にものを言わせて、何千億円という巨額の資金を動かしているからといって、あなたのことを、やれビッグ・プレーヤーだの花形ディーラーだのとちやほやするのは、相場のことを知らない一部の人だけよ。あなたのことも、康和銀行のことも、陰ではまるで無知な素人みたいに思われているのがわからないの。事実、あなたのしていることを見れば、そうとしか言えないもの。もういい加減に目を覚ましてよ。こちらの人間の目から見れば、日本の都銀のディーラーなんて、裸の王様だぐらいにしか見ていないのに気がついてよ」  明石が何も言い返さないのは、州波の言葉が正しいことをわかっているからだ。それでも、どうすることもできない自分の立場を歯がゆく思っているのは、むしろ明石自身のはずだった。だが、州波には言葉を選ぶ心のゆとりさえなかった。 「大きな取引をしてくれる客だから、手数料稼ぎができるいいカモだと見られているだけなのよ。だから表ではちやほやして、裏では舌を出して笑っているんだわ。ばかみたいに人の話に左右されたり、しっかりした相場観もないのにやたらと金額だけ増やして取引しても、墓穴を掘るだけ。そんな無謀なディーラーを誰も尊敬なんかしやしないのよ」  州波の言葉は容赦なかった。 「今日の市場のことだってそうよ。康和の本店が、東京から大量の買いを入れたのは聞いているでしょう。彼らが市場を押し上げている一方で、ニューヨーク支店が無茶な空売りをしている。まるで親子で刺し違えているようなもの。相場をしかける材料も、なにもないような静かな市場で、康和銀行だけがばかみたいなことをやっている。誰も言わないだけで、みんな筒抜けなのよ。気づいていないのは、愚かな康和の人間だけ。ねえ、お願いだから無茶はやめて。このままではますます損失額が大きくなるだけじゃない」  なんとしても明石の目を覚まさせたかったのだ。黙っている明石に向けて、州波は自分自身へのもどかしさまでもぶつけていた。 「君だって、明日フランクフルトに行くじゃないか。上司に言われたら、ばかみたいだと思っても断われないことがあるだろう。それが組織の人間の宿命だし、限界なんだよ」  明石はやっとの思いで口を開いた。単純に断わりをいれるだけのために、わざわざ会いにいかなければならない州波の出張を、明石は指摘していたのだ。相手がドイツ連銀だというので、上司が州波に時間を割いてでも出向くように言ってきた。  明石の口から出た刺が、州波の苛立ちを直撃した。 「卑怯よ。私のことを持ちだして一緒になんかしないでよ。だいいち出張するのは、なにもボスに言われたからだけではないわ。あなたのこととは全然違う。ねえ、あなた本当にわかってるの? あなたのしていることは犯罪なのよ」 「言われなくてもわかっているよ」 「いいえ、わかってないわ。一刻も早く事実を全部公表して、素直に不正行為を認めるべきよ。すべてを闇に葬って、うやむやのうちに消してしまおうという康和の姿勢も信じられないけれど、それを見て見ぬふりで通す日本の当局も、いったいどうなってるのかと思うわ。悪いとわかっていながら、前任者が犯した罪を全部引き受けて隠蔽工作をするなんて、どう考えてもおかしいわよ。あなた共謀者になるつもり?」 「しかたがないよ。銀行の名前に傷をつけるわけにはいかないから」 「え?」 「それに、僕も、銀行を辞めるわけにはいかない」  聞こえないほどの声だった。州波は驚いたように明石を見あげた。 「──いまなんて言ったの?」 「僕には康和銀行を辞められないと言ったんだよ。君の言うように告発をして、いまさら康和を辞めることになったら、こんな難しい時代に、そう易々と再就職なんかできないだろう」  ほとんど無意識に、州波の口から言葉がほとばしった。 「だけど、はっきり言って康和銀行にこれ以上いても、あなたのキャリアは伸びないわよ。康和はまったくの素人集団だもの。あなたから聞いているだけでも、そのひどさにうんざりするぐらいだわ。本当のプロのトレーダーなんて、誰もいやしない。みんな上役の顔色を|窺《うかが》う知恵ばかり優れていて、まともな知識もなければ情報網もない。相場の分析力もなければリサーチ力もほとんどゼロ。これ以上あんな銀行にしがみついても、あなたは腐っていくだけよ」  なぜこんなひどいことを言っているのだろう。州波は言いながら、その場で後悔していた。だが、自分ではもう止められない。明石の顔が辛そうに|歪《ゆが》むのが、はっきりと見えた。 「州波、僕は一人じゃないんだよ」  瞬間、州波は声を失った。喉元を鋭い刃物でかき切られたのではないかと思った。 「妻や息子のことを考えないわけにはいかないよ」  州波はただ明石の目を見た。 「僕みたいな中途半端な人間じゃ、康和を辞めて外資系に転職したいといっても無理だ。康和の上の連中の言うようにするしかないんだよ。ここで僕が寝返って、すべての損失の存在や、それを隠すための|飛ばし《ヽヽヽ》の実態を暴露したら、銀行も僕も無傷ではいられない。妻や息子までが、一生負い目を背負って生きていくはめになる。僕のために、世間の冷たい視線を浴びながら暮らさなければならないんだよ。そのうえ、もしも僕が逮捕されるようなことにでもなったら、誰が二人を養うんだ。そんなこと僕にはできないよ」  明石の声は驚くほど冷静だった。それだけに、一語ずつがよけいに鋭く州波を貫いた。そんなことは言われなくてもわかっているのだ。そのことについては、明石よりも自分のほうが何倍も知っている。だからこそ、明石の口から聞きたくはなかった。州波はわきあがってくる激情と、必死で戦っていた。 「僕さえ我慢して口をつぐんでいたら、今の仕事も家族のことも、ずっと面倒見てくれると銀行側は約束してくれた。だから僕は──」  州波は完全に狼狽していた。もう耐えられなかった。そして、これ以上明石の前に居続けると、平静ではいられないと思った。自分が何にうろたえ、何に傷ついているかを、明石には悟られたくない。 「じゃあ、あなたの正義はどうなるの? あなた自身の信念は? プライドは? そんなものよりも、ずっと守りたいものって何? もっと大切なものってほかに何があるというのよ?」  違う。こんなことを言うと、嫉妬していると思われてしまう。それだけは州波には耐えられない。それではあまりに自分がみじめすぎる。州波は必死で別の言葉を探していた。 「そうじゃないよ。慶子や翔武のほうが大事だというんじゃないんだ。ただ夫婦がいくら冷めていると言っても、僕に夫や父親としての義務がなくなったわけではない。義務や責任というものは、愛情の強さや種類とは関係なく、無視できない重さがあるんだよ」  独りで暮らしている州波には、明石の気持ちなど理解できないと言いたいのだろう。明石が冷静であればあるほど、州波はかえって激していった。 「自分は犠牲者だと言いたいわけね。あなたは卑怯よ。家族の生活を守ることと引き替えに、正義感にも良心にも、しかたなく目を背けるしかなかったんだと、自分で自分に言い訳を用意してやっているだけじゃない。そんなあなたのことを、息子さんは本当に尊敬できると思っているの?」  どうしてわからないのだと州波は言いたかった。だが言えば言うほど、虚しさばかりを感じた。明石を傷つけながら、州波の心が血を流している。だったらどう言えばいいのだろう。自分は何を言いたいのだ。本当は明石に何をさせたいと思っているのか。真実を公表し、康和銀行を辞め、そのあと家族も捨てて自分のもとへ来て欲しいと言いたいのだろうか。それを口にすることが、はたして自分に許されるというのか。忌まわしい過去の記憶を、いまだに引きずっている自分のもとへ、すべてを捨てて来てくれなどと、本当に言ってしまってもいいのだろうか。  泣きたいような気持ちに耐えて、州波は無理にも顔をあげた。 「もう一度よく考えてみて。そして、今度こそ答えを出して。あなたが答えを出すまで、私はあなたとは会わないわ」  言ってしまった途端、州波は自分がすっと醒めていくのを感じた。口にすることのなかった州波の願いは、しかし、明石に届くとは思えなかった。そして明石は、決して出すことのできないもう一つの決断の代わりに、またしても州波を捨てるという決断を下すことになるのだろう。  すっかり黙り込んでしまった明石を残して、州波は部屋を飛び出した。渡すつもりで持っていたフランクフルトの連絡先を書いたメモを、まるで仇かなにかのように、力まかせに丸めて、ポケットのなかに入れた。  四日間のフランクフルトへの出張から帰って来ると、州波は自分の部屋のデスクに、明石が置いていったらしい茶封筒を発見した。留守の間に明石が部屋にやって来て、忘れていったようだ。何気なく中をみると、三枚の|光磁《M》気ディ|スク《O》が入っていた。  いままでもこういうことはよくあった。州波が留守のときに部屋をふらっと訪れ、適当に時間を潰して帰っていくのである。せっかく来たのだから、州波が帰るまで待っていればよさそうなものだが、明石はどうやら留守だとわかって来ているようなふしがあった。  自分の家でも職場でもなく、その両方から解き放たれた、まったく自由な空間というのは、明石を心からくつろがせるらしい。 「誰とも口をきく必要のない、たった一人っきりになれる空間があるというのもいいものだよ。州波の部屋はそんな唯一の場所だからね」  明石はいつかそんなふうに言ったことがあった。いつも一人で暮らしている州波には、頭では理解できるとしても、実感のない言葉だ。  合鍵を使って部屋に入った明石は、州波のパソコンを使って何か仕事をしていた形跡があった。これまでにもよくあったことだ。そのあと、そのまま資料の入った封筒を忘れていったのだろう。それも何度かあったことだ。  たぶん今夜か明日にでも、封筒を忘れていったことを思い出し、電話をかけてくるだろう。きっと、急いで取りに来ると言うに違いない。あんな捨てぜりふを残して州波が帰ったことなど、すっかり忘れたような顔で、いつものようにやってくるのだ。  もしかしたら、そのためにわざとこの封筒を置いていったのかもしれない。忘れ物を口実にして、さもあわてた顔をして会いにくるのだ。そう思うとおかしかった。  明石が部屋に来たときのためにと、州波は部屋のなかを手早く片付けた。夕食を作るために食料の買いだしに出かけ、一緒に飲むためのワインも選んできた。そんな、なんでもないことをするのにも、州波の気持ちが弾んでくる。明石がそのつもりなら、自分も何もなかった顔で迎えればいいのだ。州波は自分がそれを心から願っていたことを、いまさらながら思い知らされる気がした。  買物から帰り、食事の仕度も終えた時点で、明石の電話を待ちながら、留守の間にたまった郵便物の整理を始めた。郵便物と一緒にデスクに置いてあった留守中の新聞に、そのとき州波は何気なく手をのばした。  空港から部屋まで直行した州波は、まったく何も知らなかったのである。少なくとも、たまった新聞のなかに、明石の死亡を告げる記事があるなどとは、想像すらできるはずがなかった。  その記事は、前々日付けの新聞のなかに見つかった。  最初に州波が感じたのは、驚きでも悲しさでもない。そんなものを感じることができたのは、もっとあとになって、ゆとりができてからのことだ。  現実感がなさすぎた。直前まで見ていたテレビのニュース番組のように、目の前に現れては移り、消えていく他人事の映像に似て、まるで実感のないただの文字の羅列にすぎなかった。州波はほとんど無感覚だった。ただ膝の力が抜けて、思わず床にへたりこんでしまった。  倒れるときに反射的に伸ばした右の肘が、テーブルにぶつかったらしい。はずみでサラダボールが床に落ち、アンディーブやトマトがあたり一面に散乱した。大きな音がしたのかもしれないが、州波の耳には届かなかった。すべての動きが、ちょうどスローモーションのように、一コマずつ動いた。床の冷たさも、肘を思いきりぶつけた痛みも、なにひとつ感じない。 「どうして──」  州波がかろうじてできたのは、その一言を発することだけだった。そして次の瞬間、州波はハッと顔をあげた。 「まさか、これが、あなたが出した答えだというの?」  そう思った途端、震えがきた。そして、無性に怒りがわいてきた。 「嘘よ、私はそんなことを言ったわけじゃない。どうして死んだりなんかするのよ、明石さん。死んだらみんな終わってしまうじゃない。自分から答えを放棄してしまうことでしょう。こんな答えは絶対に認めない。自殺だけは、どんなことがあってもしてほしくなかった。そうよ、自殺だけは何があっても認めるわけにはいかないの。それだけは、私には許せない」  心の底がしんとしていた。身体中が冷えきって、涙すら出てこない。 「こんなのルール違反よ。あなたは自分一人で逃げたわけ? あの父と同じ道を、あなたも選んでしまったということなのね。どうしてなの──いったい、なんで自殺なんか──」  百万回繰り返しても、言いきれない気がした。ただ身体の震えだけが、いつまでたっても止まりそうになかった。  床に座り込んだまま、州波はぶつぶつと口のなかでつぶやいていた。  もうすでに風化しかけた記憶が、少しずつ脳裏に甦ってくる。いや、いっそ風化して完全に消え去ってしまえばいいと、どれだけ望んだことだったろう。  父が死んだのは、州波がまだ中学三年生のときだった。  いつものように学校から帰ってきた州波は、玄関から入ろうとするところで、近くに住む顔見知りの大人に腕をつかまれ、その人の家に連れていかれた。玄関わきの部屋に入ると、すでに弟の|千尋《ちひろ》が小学校から帰宅していて、テーブルに出された大好物のケーキには手もつけず、ただうなだれて座っていた。  何があったのかを知らされたのは、ずっとあとのことだ。ただ、自分の家なのに帰ることを禁じられ、母は家にいるが忙しくて出てこられないのだという説明を受けた。何を訊ねても、はっきりとした答えが返ってこない。だが、州波も千尋も、それ以上無理に訊いてはいけないのだと、どこかで感じとっていた。  何人もの人間が、忙しそうに、自分たちの家に出入りしているのが見えた。ときおり、付き添ってくれる大人達が交替し、そのたびに州波達姉弟を見ては涙をぬぐっていた。事情がわからないのは、州波も弟も同じだったが、二人は子供なりに、家族が何か深刻な事態に陥っていることを敏感に察知していた。  父の死を知らされたのはその日の夜遅くで、それが自殺によるものだと知ったのは、葬儀が終わってさらに二日後のことだった。自宅の寝室の鴨居に母の腰紐を掛けて、父が首を吊ったのだということや、その原因については、結局誰の口からも一切聞かされなかった。  棺の中に眠る父の顔は穏やかだったが、なぜ母の気に入りのスカーフが、喉もとを隠すように巻かれていたのか、その理由を知ったのはさらに日がたってからのことである。  葬儀の様子も、その後の暮らしも、もはや記憶の中では漠然としてしまったが、あの日、白い菊の花に埋もれた父の顔と、母のモスグリーンのスカーフだけは、いまもその細部まで、州波は鮮明に記憶している。  父の死後、母はどうやって生計を立てていたのか、当時の州波には知る由もなかったが、まもなく住み慣れた家を手放し、小さなマンションに引っ越した。母は、父のことについてほとんど語らなくなり、家族の暮らしから笑いが消えた。  それまでは子供達を叱ることのあまりなかった母が、父の死を契機にひとつだけ変わったことがあった。どんなときも、子供達が卑屈に俯くことを許さなくなったことだ。どんな理由があったにせよ、うなだれたり姿勢を悪くしていると、母はいつも険しい顔になった。そして決まってこう言うのだ。 「しっかりしなさい州波。あなたのお父さまはご立派な方だったのです。だからどんなときも、あなたはお父さまの娘であることに誇りを持って、毅然として生きていかなければなりません」  華奢な身体つきを、無理して|凜《りん》と反らして歩くような母は、父の死の直後からさらに痩せ始め、たびたび病床につくようになった。州波と弟の千尋は、母のもとを離れて京都の母の実家にひきとられ、その日から祖母と同じ有吉の姓を名乗ることになった。  母がそのすぐあとにどこかの後妻に入ったことを知ったのは、それから三年後、末期の乳癌で入院中の母を見舞ったときだった。長い時間電車に乗り、連れて行かれた東京の病院の待ち合い室で、母にはすでに自分達とは別の家族がいることを教えられた。  父に誇りを持てとあれほど教えた母が、なぜ父の匂いのするものを一切身の回りから遠ざけてしまったのか、州波は少しずつ疑問を抱き始めた。父の姓ばかりか、父が確かに存在した事実まで、消し去ろうとしているようにも見える気がした。母が父の妻であった事実や、州波や弟の千尋が父の子供であることまで、次第に知る人が少なくなっていったのは、母がそれを意識的に選んだからのように思えてならない。それがはたして何を意味しているのか、母の本心がどこにあったのか、いまとなっては知るすべもない。  父の死にも、母のときも、州波はほとんど泣かなかった。無理に堪えているつもりはなかったが、生まれつき涙の量が少ないのだと、本気でそう思っていたぐらいだ。  母の一周忌の法要のとき、たまたま昔銀行の社宅で一緒だった父の元同僚が訪れ、親戚の人間と小声で話しているのを聞いたのは、偶然のことだった。それで初めて、父の自殺の原因について、おぼろげながら知ることになった。父の死後五年近くもたったころである。そのときになって、周囲がなぜあれほどまで頑なに隠し通したのか、そのわけがついにわかったような気がした。  州波は、ものに|憑《つ》かれたように図書館をまわり、古い新聞の記事を片っ端から読みあさった。父の自殺当時の新聞になら、どこかに父のことが出ているはずだと思ったからだ。誰に訊いても教えてもらえなかった自殺の真相を、なんとしても知りたかった。  だが、どれだけ探しても、何も見つけることはできなかった。長い時間を無駄にして、州波は父の死が、世の中から完全に抹殺されていたことを悟ることになった。その背後に、おそらく何らかの意図があったのではないかと、州波が考えるようになったのは、それからさらに後のことである。  弟のときは、さすがにショックだった。乗用車ごと北陸の海に突っ込み、車だけ発見されはしたが、遺体はとうとう揚がらなかったと言われては、実感のわきようがない。  東京で学生生活をしていた弟が、なぜそんなところを一人で走っていたのか、その前に何があったのか、州波には調べる手段さえありはしなかった。ただ、何度もねだられて、やっとの思いで買ってやった新車が、弟の命を奪うことになろうとは想像もしていなかった。  自殺であるわけはない。事故だったのだ。州波は自分にそう言い聞かせた。千尋の死は、断じて自殺であってはならなかった。  二人きりになってしまった家族なのだから、そばにいてやるべきだったのだ。州波がもっと仕事に慣れ、あとほんの少し生活に余裕ができれば、弟もニューヨークに呼び寄せてやろうと思っていた。だが、そのことをついに千尋に告げることはなかった。当時の州波は、慣れないニューヨークの大企業のなかで、押し流されずにいるだけでも精一杯のことだったのだ。  組織の中で自分の存在を認めさせ、確かなチャンスを得るためには、ほかのことに気を取られている余裕などないと思えた。州波は疲れきっていた。  いまから思えば、千尋は何かを訴えようとしていた気がする。事故の二日前、なぜかめずらしく電話をかけてよこした弟を、州波は詳しい話も聞かずに冷たく突っぱねた。いつまでたっても姉を頼ってくる千尋の存在を、どこかで疎ましいと思ったのかもしれない。  警察では事故だと断定されたが、弟の死の真相はわからない。いや、死んだことすら納得がいったわけではなかった。  いまでも、どこからかひょいと現れ、長い間留守にしてごめんと、頭を掻きながら言うのではないかと、州波はどこかでまだ信じているようなところがある。  明石と初めて出会ったのは、そんなころだった。明石の横顔は、千尋にどこか似ていた。初めて書店で明石が声をかけてきたとき、州波は思わずあっと声をあげたぐらいだった。  確かに明石といると、最初は何度も千尋を思い出した。千尋が姿を変えて、州波の前に現れたのかもしれないなどと、本気で思ったりしたこともある。だからこそ、明石が何かを訊いてくると、どうしても邪険にはできない気がした。  明石との出会いは、州波に辛い記憶ばかりをよみがえらせた。初めてそのことを明石に告げたのは、いつだっただろうか。だから明石を遠ざけようとしたのだ。だが、そうすればするほど、明石は州波を追ってきた。 「僕は千尋君ではない。君の弟ではないんだよ」  そのことを示したいのだと言って、明石は州波を抱こうとした。州波は、何度もそれを拒みながら、自分が本当は明石から離れられないことも知っていた。  幼いころから、まったく陰を知らずに生きてきた明石は、底抜けに明るい男だった。人に甘えることが上手で、人を笑わせるのも巧みだった。確かに明石を知ってから、州波は笑うことを思い出したような気がする。仕事では何度も明石の窮地を救ったが、そのたびに本当に救われたのは、実は州波自身だったこともわかっていた。明石の存在そのものが、州波に何よりの救いを与えていたのだ。  その明石さえ、いまはもういない。州波は不意に現実に引き戻された。ふと気がつくと、左手にはしっかりと新聞をつかんだままで、指が凍り付くように冷たかった。  深呼吸を繰り返してから、もう一度記事を読み返したとき、明石が死んだのは、州波がフランクフルトに発った次の日の夜のことだとわかった。やっと床から立ち上がって、デスクのところに戻り、州波は自分でも無意識に、明石が置いていった茶封筒に手を伸ばした。  びっくりするほど重さを感じて、気がついたら、封筒が手からすべり落ちていた。さっきはこんなに重く感じなかったはずだ。封筒から中身が飛び出し、ディスクの入ったプラスティックのケースがフローリングの床にぶつかる音がした。  音が、余韻を残しながら部屋中に響きわたっている。この部屋にいるのは自分一人だけなのだと、州波はあらためてそう思った。  しばらくのあいだ、茫然とディスクを見ていた州波は、はっとして床から拾い上げた。このなかに遺書が残されているのではないかと思ったからだ。  明石は自殺だったのだ。その明石が、直前にわざわざ届けにきたのだとしたら、その可能性も考えられる。死を覚悟した明石が、何かを州波に託したのだとしたら、すぐにもそれを知らなければならない。  封筒のなかに、手紙かメッセージが入っているはずだと考えたが、それらしいものはない。すぐにパソコンのところへ行って、三枚の|光磁《M》気ディ|スク《O》の中身をそれぞれ調べてみた。だが、州波の予測はことごとく打ち消された。  そのあと、ミッド・タウンにある明石が滞在していたホテルに行ってみる決心をした。コートを着る間も惜しんで道路に飛び出し、タクシーを拾い、住所を告げてから、州波は途中で行くのを断念した。  行っても、どうすることもできないではないか。明石のいないいま、自分のことを何と名乗ってあの部屋に入る気なのか。答えは哀しいぐらい明白だった。明石とのことは、決して人に知られてはいけない。それは、州波自身のためというより、明石や残された明石の家族のために配慮されるべきことだった。  |怪訝《けげん》な顔をする運転手を残して、州波は逃げるような思いで部屋に戻った。  二度と、ホテルにも明石の近辺にも近づかないと、心に決めた。生きていればこそ、会うこともできる。明石を誰よりも身近に感じていられた。だが、明石の意志が働かないいまとなっては、完全に手の届かない存在になってしまったのだ。  そのとき初めて、明石がもうどこにもいないことを理解したような気がした。 「口封じ」という言葉が、ずっと州波の頭を支配していた。  組織の不祥事が発覚すると、日本ではかならず当事者の誰かが自殺をする。ときには取り調べの途中や、逮捕の前日に命を絶った容疑者の話を、過去にどれだけ聞いたことだろう。死によって自らの口を封じた死者と共に、真実は永遠に葬られる。父の自殺がそうだったようにである。  相場の世界もそうだ。大暴落が起きた相場で、巨額の損失を生み、世の中が真っ暗になったとき、誰かが死ぬと決まって反転する。日本にはそんな言い伝えすらあると聞いたことがある。死によって美化され、曖昧にされ、その根本的な原因も対策も見つからないまま、人は真実の追究を放棄するのだ。  明石もその一人だと思いたくはなかった。もしそうだとしたら、あの父と同じになる。それが事実なら、州波は明石を決して許せないと思った。  では、逃避なのか。ならば何から逃げたかったのだろう。銀行という組織や仕事からか、隠蔽工作に関わっているという罪の意識からか、あるいは家族からなのか。さもなければ、州波という存在からだったのか。 「そんなことないよね、明石さん。あなたはそんな人ではなかったはずよ」  州波はそれを自分で確かめなければならないと思った。明石がなぜ死んだのか。それを理解しなければならない。そうでなければ、州波自身が生きていけないような気がした。この先、何を信じて進めばいいのかわからなくなりそうだった。  州波は、もう一度三枚のディスクを丹念に調べてみることにした。無機質なディスクにでも、あるいはパソコンの画面に現れる文字のなかにでも、少しは明石の匂いを嗅ぎ取れるのではないかと思ったのかもしれない。  ディスクに保存されていたものは、ほとんどが数表だった。銀行業務などの詳細を記録したもので、康和銀行で明石が実行してきた市場取引に関する記録らしい。日付や金額、取引相手や経由したブローカーの名前まで詳しく明記されたもので、明石がニューヨーク支店に再度赴任して以来の四年間のほとんどが記録されているようだ。  この記録がいったい何を意味するものか、それをなぜ明石が銀行から持ち出したのか。それをつきとめるまで、かなりの時間が必要だろう。簡単な作業でないことぐらい容易に想像がついた。それでも、その目標ができたからこそ、州波は立ち上がることができたのかもしれない。  その日以来州波は、仕事を終えて帰宅したあと、すぐにパソコンに向かい、毎夜ほとんどの時間をその作業に没頭して過ごした。すべての記録をプリント・アウトし、くまなく目を通し、それぞれ他の関連ファイルとも丹念に突きあわせていく。根気のいる仕事だった。仕事で疲れ切った頭は、緻密な思考の組み立ても、正確な判断も困難にする。  自分がしていることが、的はずれで不毛な努力のような気もした。それでも州波は作業をやめようとは思わなかった。何かが、州波を衝き動かしているのを感じた。 「──やっぱりそうだったわ」  明石のディスクを手にしてから、一カ月ばかりたっただろうか。州波は、自分が途中で立てた仮説が、間違っていなかったという確信を得た。読み進んでいたデータが、明石が前々から何度も漏らしていた、康和銀行の損失隠蔽に関わる詳しい取引記録のコピーだとわかったとき、州波は思わず叫び声をあげた。誰にでも構わず、大声で告げてまわりたい気がしたほどだ。  データのなかには、本支店間の取引の捏造や、関連子会社への|飛ばし《ヽヽヽ》取引の証拠らしき部分も網羅されている。一つの事実が繋がると、あとはわかりやすかった。記録は、一件の取引がどれだけのコストで、どの程度の損失を生み、どうやって隠されたかについて、順を追ってまとめられていた。まるで明石自身が、すぐにも事件を告発しようという意図のもとに、証拠となりうるように準備しておいたもののようにも思える。  そして、巨額の損失を隠すために、康和銀行が保管している顧客名義の資産を無断で売却して、穴埋め資金として使っていた事実や、架空取引を仕組んだ証拠になる資料までも残されていた。  明石は何を思ってこんなものを州波に託したのだろう。康和銀行の損失隠蔽工作を、明石に代わって、州波の手で世に公表してほしいというのだろうか。だが、そうすれば明石が加担していたことも暴露されるのは免れない。そんなことになれば、明石の家族にも影響が及ぶことになり、明石がそれをどれほど避けたがっていたかという事実と矛盾する。  自らの罪の意識や、良心の|呵責《かしやく》に背を向けてまで、明石は家族とその暮らしを守ろうとした。州波に何度も鋭く責められながらも、ひたすら隠し通してきたのはすべてそのためだったはずだ。  州波はそんな明石に失望したときもあった。だが、明石が自ら死を選んだことも、明石のそういう意志の延長なのだろう。明石は、自分の生命を絶つことで、妻と息子を守る道を選んだのだ。これほどのものを用意しながらも、自らの手で告発しようとはせず、州波に、代わって公表しろと言っているのだろうか。 「どうしてよ、なんで私がそんなことをしなければならないの──」  やりきれなさに、州波はいまにも大声で叫び出しそうになる。無性に腹立たしかった。三枚のディスクと、プリントされた厚い資料の束をわしづかみにし、すべてをまとめて抱きかかえた。そしてそのままゴミ箱のところまで持って行く。 「冗談じゃないわよ、明石さん。あなたが自分ですればよかったじゃない。それを、なんでこの私が──」  顔の前まで振り上げてから、足踏み式の蓋を開け、思い切り投げ捨てようとした。力まかせに投げ付けたかった。怒りも、憤りも、哀しみや、どうしようもないやりきれなさも、すべてを込めて打ち捨てたかった。  だが、そこまで思いつめて、振り下ろした手を途中で止めた。そして、そのまま胸に抱きしめた。 「あなたはこんなものに生命を賭けたの。こんなもののために死んだっていうの」  州波は、思わず叫び声をあげていた。瞬間、脳裏に、資料のなかで知った康和銀行の隠蔽工作の実態が浮かんでくる。それと気づいたあとで読み進むデータは、いかに姑息で、市場を|冒涜《ぼうとく》する行為であるかが明確に感じ取れた。いったん事実を知ったからには、同じ金融界に籍を置く身として、このまま見逃すことができないものだ。明石が追い込まれていた苦難や、葛藤の大きさもあらためて知らされた思いがした。  康和銀行幹部の人間達に対しても、激しい憤りを感じる。彼らが明石の死に対して、どういう反応を示すのかを見届けたいという気にもなってきた。どちらにしても、このまま証拠資料を放置しておくわけにはいかないのだ。 「日本の銀行は一行たりとも潰さない」と言った、かつての大蔵省の言葉を、州波は苦々しい気持ちで思い浮かべた。銀行を潰さないことを優先するあまり、個人の生命さえ軽んじるような、不正の温床を育てているのだとしたら、その金融当局も無罪ではないはずだ。「銀行の名前に傷をつけられない」と言った明石の顔も重なってくる。その銀行に、明石は自らの生命を差し出したのだ。 「思い知らせてやるのよ、明石さん。こんな銀行は、世の厳しい批判を受けるべきなのよ。そしてこんな幹部の役員連中は、はっきりと責任を取るべきなんだわ」  このとき、州波はある計画の実行を心に誓った。  もう一度最初から時間をかけ、明石が残した膨大な取引記録について、さらに調べ直すという作業を開始した。保存されたディスクの記録を見直し、取引の日付に従って、いかに損失が膨らんでいったかを徹底的に追及する。そして、それらがいかなる方法で隠され、表に出ないように工作されたかを解明するという、気の遠くなりそうなほど複雑な作業だった。  ところどころに明石が補足している解説やコメントを読みながら、州波は詳細に取引の記録を読み進めていった。明石のメモを読むたびに、まるで二人で一緒に作業をしているような錯覚に囚われるときもあった。作業に没頭している瞬間は、明石がこの世にいないという事実すら、つかのま忘れていられそうな気がした。  しばらくして、州波はひとつの問題に直面した。不正取引の事実があることは見つかったが、関係した当事者が特定できないのである。州波の手もとにあるディスクの記録には、明石が不正取引の隠蔽工作を強要された事実と、その具体的な指示については記録されていたが、関与していた人物の名前についてはイニシャルになっていた。そのイニシャルと実名との対照表の存在を匂わせる記録があるにはあったが、実際のその対照表を保存したファイルだけは別に保管されているらしい。おそらくは、それがこの証拠資料のすべての鍵を握っていると思われる。  この部分だけは最後の切り札として、あるいは万が一の場合の安全策として、明石は別の場所に極秘に保存したのだろう。それを、明石は州波へ残したディスクには入れておかなかった。 「絶対にどこかにあるはずだわ」  州波はその対照表を見つけなければならないと思った。それを発見することも、計画の実行と同時進行させること。いかに確実に、康和銀行の不正を明るみに出すか。そして関わった人間のすべての悪事を世の批判にさらし、責任を追及する。  明石に代わってこの記録を公表し、康和銀行の不正行為を告発するのならば、細心の注意を払わなければならない。明石の死を無駄にせず、明石の死を汚すことなく実行することは、はたして可能なのだろうか。少しでも方法論を間違えば、まったく逆の結果を招く危険性もある。明石という存在を否定し、貶めることだけは許されないと思った。それは州波自身をも貶めることになるからだ。  そのためには入念な準備が必要だった。計画は、その最後の一瞬まで秘密にしなければならない。もし途中でばれてしまったら、今度こそ明石一人が矢面に立たされ、明石自身が起こした個人的な不祥事に仕立て上げられるのは必至である。  州波は緻密な計画を立てることに専念した。州波がこの資料を持っていることを知られるのは危険すぎる。それを考えると、協力者は一切望めなかった。州波がたった一人で立ち向かうには、敵が大きすぎるのはわかっていたが、州波がやらなければ、誰がこれを実行できるというのだ。 「明石さん、私にやり遂げられるのかしら?」  州波は凝視していたモニター画面のデータから顔をあげ、天井を見上げた。こうやって明石に呼びかけることも、この一カ月すっかり習慣になってしまった。 「いいえ、どんなことになっても、もう覚悟はできているわ。これをやり遂げないと、私は私を解放することができないから。あなたから卒業して、一人で生きていくことなど到底できない気がするから──」  ふと、背後に視線を感じたような気がした。だが、州波は振り向かなかった。明石が見ていてくれるのかもしれない。州波はかすかに首を振った。 [#改ページ]  第六章 醜 聞     1  六月最後の月曜日は、朝から梅雨の合間の青空が広がった。いっきに強さを増したような陽射しを受けて、東京駅から足早に職場へ向かう芹沢裕弥は、まぶしげに目を細めた。  大蔵省が、かねてよりの懸案事項だった金融関係業法の改正により、近く金融持ち株会社制度の前倒し解禁に踏み切ると公式発表をしたのは、今朝の朝刊で知った。しかも、特定の持ち株会社が、金融機関と同時に非金融部門である一般事業会社を保有できる制度をも含めて、認可する方針だという。前に児玉から聞いていたことが、ついに公表されたのである。 (それにしても、思いきった対応策に出たものだ)  芹沢は銀行の通用口を通るときも、エレベータでディーリング・ルームに向かう間も、今日の市場がこのニュースにどう反応するかを考えていた。 「おい、今朝の新聞読んだか? やっぱり言った通りだっただろう」  デスクに着く直前で、児玉に肩を叩かれた。 「解禁が早まった最大の原因は、やっぱり康和銀行のためらしいよ。邦銀への公的資金導入に関して、世論がこうまで反対するとは計算外だったのさ。この前の取り付け騒ぎは、とりあえず日銀特融で収拾したものの、やっぱり藤蔭組との長年の癒着が発覚したのは、救いようがなかったよな」  児玉の話によると、おそらく二、三日中にも、康和銀行が何らかの発表をするという。予想通り、大蔵省の公式発表を待ちかねていたように、その日の夕方東京市場が引けるころを見計らって、まずトヨカワ自動車の経営陣による記者会見が開かれた。彼らは、すでに金融持ち株会社設立のための準備に入り、長年の念願であった金融ビジネス開始へ向けての、具体的な検討を始めると発表したのである。  記者会見での発表は、あえて銀行業界を強く刺激するようなものだった。トヨカワ自動車の代表取締役原喜一は、集まった記者団をその大きな目で|威嚇《いかく》するように見回したあと、挑戦的とも思える口調でこう告げた。 「われわれの企業グループが、長年の夢だった銀行を傘下に入れるからには、トヨカワの創業理念である、何よりお客様第一主義の姿勢に則した事業展開を行なっていくつもりです。最近の、日本の金融業界における、大手の証券会社や都市銀行などの体たらくには、目にあまるものがあります。もちろん金融当局もしかりです。はっきり申し上げて、彼らは腐りきっておる」  原が大きな声を発するたびに、カメラのフラッシュが光った。 「わが社は、為替取引においても、コマーシャル・ペーパーや社債の発行などの資金調達においても、あらゆる金融取引に関して、長年の経験を持つプロ集団を抱えております。ですから、今回のことは、われわれが金融業界に一石を投じたいという挑戦であり、日本経済に喝を入れたいという願いでもあるのです。当局の規制が撤廃されたいま、わが社で育てあげてきた金融のプロ達に思う存分働いてもらうつもりです。これまでは、製造原料の調達資金も、製品販売の売上金も、いちいち為替リスクをとって銀行決済をする必要がありました。そのつど往復のコミッションや、送金手数料を、銀行に支払ってきました。銀行さんにみすみす儲けさせるばかりだった。そういうコストが全部節約できます。それをそっくり、世界中のトヨカワのユーザーに還元できるのです」  原の言葉を受けて、記者の一人が声をあげた。 「トヨカワ自動車の販売価格も下げられる予定ですか?」  原は待ってましたと、表情を和らげた。 「当然、十分に検討余地が生じてきますな。だが、それだけじゃない。わがトヨカワ自動車の世界に誇るべき信用度をもってすれば、欧州債市場での社債の発行により、かなり低金利の資金調達が可能です。これをこれまでのように新規事業や設備投資にあてるばかりでなく、銀行の貸し渋りに苦悩してきた中小企業に向けて、積極的な融資にまわすことも考慮しております。ご承知のように、これまでの日本経済は、輸出産業である製造業が支えてきたと言っても過言ではないでしょう。過激な円高に見舞われても、われわれはなんとか生き延びてきた。その製造業を支えてきたのが、全国の中小企業なのであります。ところが、このところの銀行の対応は目に余るものがある。長年銀行さんにいじめられてきた立場から、今後は銀行業務の在り方を根本的に変えていきたいと考えております」  原の言葉が終わるまえに、記者達の間からまた質問が飛ぶ。 「いよいよマネー・ビジネスにも殴り込みをかけるわけですね。ローンの分野でも金利競争、つまり価格破壊を起こそうというのですか?」  和やかな雰囲気につられたのか、すぐ隣りから、若い記者が野次をとばした。 「ますますトヨカワの車が買いやすくなる。トヨカワにしてみれば、車とセットでマイカー・ローンも契約させ、両方で儲けようという魂胆ですね?」  記者団のなかにどっと笑いが起きた。 「銀行業界にしてみれば、思わぬ伏兵の出現というわけです。最近の、外銀勢からの猛烈な追い上げだけでなく、今後の邦銀間では、顧客獲得のための生き残り競争が、ますます激化していくことになりますね」  笑い声に水を差すように、年輩の記者から声が飛ぶ。原はここぞとばかりに口を開いた。 「そうです、すべての金融ビジネスにも健全な競争原理が働くことになる。これまで日本の銀行は、大蔵省に守られてさんざんおいしい思いをしてきたじゃないですか。ただみたいな金利でお客から資金を調達し、たっぷり利ざやを抜いてお客に貸し出す。たかがちょっとした外貨送金にも、めっぽう高い手数料を取ってきた。やりたい放題でやってきたんです。金利の自由化や規制緩和などと口では叫びながら、実際のところは資本主義の原理に反するような、銀行保護のシステムが公然と続けられてきたのです」 「力のある企業は、ますます独占体制にはいれるというわけですね。昔の財閥の時代に逆戻りするような感じがありますが──」  別の方向から記者の声がした。 「経済界のなかに、健全な競争精神が働くのはいいことです。ビジネスはすべからく闘いですよ。力を失ったものは、次に来る勢力の|礎《いしずえ》になっていくべきだ。無理して生き残らせることに固執し続けると、日本の経済は根本から破綻を余儀なくされる。五十年以上も使い続け、古くて時代に適応しなくなったこれまでの金融システムという日本経済の器は、この辺で大爆発を起こして、新しい器と取り換えていく時期が来ているのです」 「いま大爆発とおっしゃいましたが、いまやビッグバンは、金融業界だけでなく自動車業界にも始まっていますよね。先月初めには、ダイムラー・ベンツとクライスラーが合併交渉に入ったと発表し、さらには、日産ディーゼル工業も傘下に入れると報道されています。今回のことは、そういう一連の動きへの、トヨカワの対抗策だと考えてもいいのですね?」  また、違う記者から質問が飛んだ。 「その通りです」  原はそこで言葉を切り、また大きな目を見開くようにして、記者団を見回した。ダイムラー・ベンツというのは、自動車部門を中心に、航空宇宙や情報部門を抱えるドイツ最大の企業グループだ。従業員数三十万人とも言われるこの企業が、米国ビッグ・スリーの一社であるクライスラーと合併すれば、トヨカワ自動車を抜いて、世界第三位の自動車メーカーが誕生することになる。 「日本の企業は、有能で勤勉な人材と、数々の試練を生き抜いた、たくましい底力を備えています。しかし不幸なことに、誤った政府の舵取りのせいで、株式市場が長く低迷を続け、いまはどこも苦難を|強《し》いられている。そんな割安になった日本の企業に、好況な外資勢から食指が伸びるのは当然のことです。ビジネスに国境がなくなり、市場はまさに世界規模で膨らんでいます。市場が広がるということは、ビジネス・チャンスが増えると同時に、競争も比例して激化するということです。われわれもうかうかしてはいられません。日本企業は、いつまでも後ろ向きな要素に縛られていないで、こういうときこそ、賢明にならなくてはいけない。広く世界に目を向け、グローバル・スタンダードでの、真の競争力をつけなければ生き残れない時代です」  原は、さらに力のこもった言葉を選んで、記者団の質問を次々とこなしていった。  一日遅れて開催された康和銀行の記者会見は、トヨカワとは対照的だった。康和銀行の名前を冠した最後の頭取となった櫻井偉平は、記者団の前に青ざめた顔を見せ、終始うなだれたままだった。進行役からうながされて、席から力なく立ち上がった櫻井は、そのまま両手をテーブルにつき、顔をあげようとはしなかった。  いつまでたっても口を開こうとしない櫻井に、記者達はしびれを切らし、ざわめいた。隣りの席に座っていた副頭取の森政一に腕をつつかれ、櫻井はやっとの思いで顔をあげた。櫻井が顔を上げると同時に、カメラマンたちのフラッシュが次々と閃光を放つ。櫻井はまぶしそうに目をしばたたかせ、やがて意を決したように、テーブルの前に進み出た。そして、その場にへたりこむように座りこむと、両手をついて頭を床にこすりつけた。 「申し訳ありません。康和銀行は、伝統あるわが康和銀行は──」  櫻井の声は途切れ、その言葉はほとんど意味をなさなかった。 「ひゃ、ひゃく、百年の伝統を誇ってきた、わが康和銀行の──、康和銀行の名前が消えてしまうということは──」  語尾は、ほとんど涙にかき消された。カメラマン達は先を争って前に進み、至近距離からのアングルを狙った。予想外の櫻井の土下座に、最初当惑していた記者達も、一瞬の沈黙のあと、思い直したように次々と質問の声をあげた。  だが、その矢継ぎ早の質問に対して、櫻井はもはや答える力も失ったようで、ただうなだれているばかりだ。それまで沈痛な面持ちで隣りの席に座っていた副頭取の森政一は、冷ややかな顔で櫻井に|一瞥《いちべつ》を与えたあと、記者の質問に答えるために立ち上がった。 「みなさん、日本の金融業界に、新しい歴史が始まるのです」  森の顔は櫻井とはまさに対照的だった。生え際の後退した広い額がてらりと光り、紅潮した丸顔には笑みさえ浮かんでいる。不自然なほど胸を張った姿勢のまま、森は芝居がかった口調で話し始めた。 「われわれが、その第一歩を踏み出す役割を担ったのであります。長年われわれを支持し、ご厚情をお寄せいただいた全国のお客様方のことを、まず何より優先しようとするがゆえに、このたび大蔵省や日本銀行のご指導のもとに、われわれはあえてこの前向きな決断をするに至ったのであります。康和銀行は、これまでの名前にこだわることなく、日本の銀行のパイオニアとなるべく、新しい一歩を踏み出すわけであります。すべては、全国のお客様のためであることを、ご理解のうえ、なにとぞ変わらぬご支援を願いたい」  一貫して強気のコメントを変えようとはしない森の言葉が、終わるか終わらないかのうちに、記者団からは次々と辛辣な質問が飛ぶ。森が何と言おうと、もはや無駄だった。康和銀行が生き残るために、なりふりかまわずトヨカワの大資本に救いを求めるしかなかったのは、誰の目にも明らかである。  そして森の頭のなかにある、新生トヨカワ銀行の頭取への就任の夢が、そう簡単に叶えられるわけがないことも、誰もが感じていた。  両者の記者発表が終わった段階で、世論は賛成派と反対派に、はっきりと二分された。他業種による金融業界への進出を歓迎する財界人側と、それに真っ向から反対する金融機関側の意見の衝突は、新聞紙上や各テレビ番組で大々的に取りあげられ、人々の注目を集めた。  銀行協会側は、あくまでこれまで通り、金融機関の提携や合併は、同じ金融機関の範囲内にとどめておきたいと主張した。もし異業種の参入を許すようなことになれば、これまで保ってきた業界内の暗黙の了解や、商習慣が破られることになる。なんとしても康和銀行を存続させようとする大蔵省の思惑が、結果的に金融業界内の競争を激化させ、力のない銀行の生き残りを困難にするという、皮肉な事態を招いてしまったのである。  同じ日、康和銀行の発表に時機をあわせるかのように、もう一件センセーショナルなニュースが取り沙汰されたのを、芹沢裕弥は銀行からの帰りに偶然知ることになる。芹沢が最初にそれを目にしたのは、駅のキヨスクで買いもとめた「週刊新時代」に掲載された特集記事でだった。鋭い切り口で社会派のニュースや事件を扱い、広い読者層から信頼を得ている「週刊新時代」には、芹沢は必ず発売日に目を通す習慣になっている。 『康和銀行崩壊の裏を読み解く』  表紙にはその号の目玉記事の一つとして、こんなタイトルが掲げられていた。康和銀行という文字に惹かれて何気なくページを開いた途端、芹沢は小さく声をあげた。見出しの横に、大きな有吉州波の顔写真が添えられていたからである。  記事の本文は、見出しよりやや小さめの活字で組まれた『仕組まれた康和銀行崩壊劇。その陰に見える一人の女性の壮大なる野心!?』というサブ・タイトルで始まっていた。さらには、『米国証券会社女性トップ・セールスの秘めたる私生活と驚くべき人脈』という行が続き、いかにもスキャンダラスな記事の内容を一目で予測させる。写真のなかの州波の顔は、読者をまっすぐに見据えているようで、見るからに反感を買われそうな表情を選んだ、編集側の意図が感じられた。  世界の金融界のトップを行くモーリス・トンプソン証券のニューヨーク本社勤務。しかも、すでに三十歳代で取締役になったという、州波の華麗な経歴紹介で始まってはいるが、それと対比させるように、途中からは数多くの男性遍歴を暴露するといったニュアンスが濃くなっている。  州波の男性関係が、不倫などというレベルを逸脱し、彼女の野望から発した、政財界の大物との人脈という形で強調してあることを見ても、記事の狙いは明らかだった。しかも、そのリストに並んだ男達の名前が、さすがに一部は仮名扱いになっているとはいえ、日本の政財界を牛耳るキー・マンばかりで、ことさら人々の|顰蹙《ひんしゆく》と非難を煽っているように感じられる。  人物のリストには、芹沢の知らない多くの要人の名前が連なっていた。これだけの人物を、出版社があえて|躊躇《ちゆうちよ》せずに公表したことが、かえって記事の信頼度を高める結果になるだろう。社会的にも影響度の高い人物だけに、全員ではないまでも、あえて実名を掲載することに踏み切ったからには、相当な調査と確信を得ているはずだと解釈される。  記事のなかでは、有吉州波という女性が、これほどまでに豊富な交友関係を構築していったのは、|貪欲《どんよく》な彼女の野心ゆえだと断言している。その野望は、庶民レベルの感覚では計り知れないほどしたたかで、その達成のためには手段を選ばない。まるで自分が社会の支配者であるかのような錯覚のもとに、通常の倫理観などまるで無視した行動を執る。恐るべき女性だとまで書き切ってあった。  その野望というのは、自らの影響力を試すために、金融界を中心として、社会の混乱を引き起こすようなことも含まれていると説き、さらには、先日の康和銀行の取り付け騒ぎに関わったことも、その実例の一つだと述べていた。州波が二十年ぶりに日本に帰ってきたことは、康和銀行の崩壊と密接な関係があり、日本市場へ侵攻してくる外資系企業との間で、多大な利益を得ていることを暗に匂わせていた。 「やっぱり、ついに暴露されたのか。しかし、いったい誰が密告したんだ──」  記事を読み進めながら、芹沢は思わず眉をひそめたくなった。男性読者を意識してか、内容がまるで興味本位に偏っているからだ。康和銀行の崩壊劇の裏を解明するというサブ・タイトルにしては、論旨もそれに至る根拠もあいまいで、内容が主題からかけ離れすぎている。  州波がどうやって康和銀行の崩壊にかかわったかという点までは、取材しきれていないのか、説得力に欠けた記事だった。  だが内容はどうあれ、州波のスキャンダルを暴き立てたことには違いがなかった。記事を読み終え、芹沢はしだいに落ち着かなくなってきた。もしかしたら、州波が芹沢を密告者だと思っているのではないかと気になったからだ。  記事が一方的な州波の|誹謗《ひぼう》に終始し、関わっている男性側には直接触れていないのも気になるところだ。彼らからのコメントも一切書かれていない。これを読む州波の心中を考えると、芹沢は情報の出所がどうしても知りたくなってきた。そして、それが断じて自分ではないことだけは、州波に釈明しなければならないと思えてきた。 「それにしても、これじゃまるで罪人扱いじゃないか」  記事の書き方を、苦々しく感じれば感じるほど、これを読んだ州波が、芹沢を疑うのは避けられないと思えてくる。宮島やロビンソン三世との密会を偶然目撃したことなど、なにもあのとき州波に言うことはなかったのだ。 「違う、誤解だ」  思わずそう叫んでしまいそうなほど、芹沢はもどかしさを感じていた。恵比寿駅でいったんホームに降りたのだが、すぐにまた発車しようとしている電車にすべり込む。新宿方面に行く電車である。何をしようとしているのか、自分でもよくわからなかった。ただ、とにかくパークハイアットに向かおうと、そのことだけが頭にあった。  この前州波と話したあの部屋を訪ねるのだ。州波がまだあの部屋にいるのかどうか、確信はない。だが、あのホテルにいることは誰にも教えていないと言っていたから、マスコミの目を逃れるためには、あの部屋に身を隠す可能性がもっとも高い。これだけの記事を書かれては、いくら州波といえども、当面身を隠す必要があるはずだ。  ホテルの玄関に着いた芹沢は、細心の注意をはらって四十九階に行った。エレベータを出るときも周囲に目を配った。幸い廊下は前回と同じようにすっかり静まりかえっている。マスコミもここまでは嗅ぎつけていないのか、あるいは人目を避けて、州波はすでに部屋を引き払ってしまったのかもしれない。  夢中でここまで来たものの、芹沢にはためらいがあった。部屋の前まで着くと、さらに気後れがした。芹沢はドアの前で一度大きく息を吸い込み、その息を止めたまま思い切ってノックをしてみる。もし違う滞在客が顔を出したら、部屋を間違ったといって謝ればいいのだ。息を止めたままで気配を窺ったが、部屋からの返答はなかった。芹沢は大きく息を吐き、心を落ち着けて、もう一度、今度はもっと強くノックをした。  しばらくするとほんの少しドアが開いた。やはり州波はいたのだ。顔は見えなかったが、芹沢はそれを確信した。かすかにあの香りがしたように思えた。 「芹沢です。開けてくれませんか、話があるんだ。まわりには誰もいませんから」  芹沢はドアのすきまに向かって低い声で言った。 「話すことなんてありません」  州波のそっけない声がして、すぐにドアが閉まろうとする。芹沢はドアのすきまに素早く自分の足先を差し入れ、あわててもう一度叫んだ。 「頼む、聞いてほしいんだ。ほんの一分でいい。話だけ聞いてくれたらすぐに帰るから。こんなところでもめていたら、いつマスコミに嗅ぎつけられるかわからないだろう。すぐに済むから、入れてもらえないか」  しばらくの躊躇のあと、州波はあきらかに迷惑そうな声で、わかったわ、とだけ告げた。足を戻すといったんドアが閉まり、チェーンがはずされ、ドアがゆっくりと開く。芹沢は細く開いたドアからすべりこむように部屋に入った。入りはしたが、奥には進まず、ドアのそばに立ったままで話を始めた。 「俺じゃないんだ。俺は何も言っていないんだよ。そのことをわかってほしい」 「何のこと?」 「何のことって、記事のことだよ。君も読んだだろう? 『週刊新時代』の暴露記事だよ。マスコミがどうして君のことを嗅ぎつけたのか、知らないが、情報を売ったのは誓って俺じゃない。それだけはわかってほしかったんだ」  芹沢は自然に早口になっていた。 「そんなことのために、わざわざ来たの?」  州波はまじまじと芹沢を見つめた。 「ああ、どうしてもそれを言いたかった。誤解されたくないんだ」 「もういいから、帰ってください」  どう見ても、芹沢の言葉をそのまま受け止めたようには見えなかった。 「よくはない。信じてほしい。本当なんだ、俺じゃない」 「わかったわ」 「いや、君はわかっていない。本当に俺は何も話していないんだよ」  芹沢は必死で繰り返す。なんとしても誤解を解きたいという一心だった。 「馬鹿みたい──」  州波はあきれはてたように顔をそむけた。芹沢と口をきくことすら嫌だとでも思っているようだ。それでもいいと思って芹沢は続けた。 「頼む、信じてくれ」  州波の眼は、じっと芹沢を捕らえていた。そして、観念したように大きく息を吐いた。 「だから言ってるでしょう、わかったって。あなたじゃないことは最初から知っているのよ。だって、この私なんですもの、話したのは」  え、と言ったきり、芹沢は言葉を詰まらせた。州波はいま何を言ったのだろう。 「そうよ、私が情報を流したの」 「なんだって!」  芹沢は思わず大声を出した。 「極東新聞の記者に知っている人がいたから、彼に紹介してもらったのよ。もちろん電話取材よ。まさか電話の相手が当の有吉本人だとは、夢にも思っていないはずだわ」  州波は表情も変えずにそう告げた。 「本当なのか?」 「もちろんよ。漏らしたのが本人だったことも知らず、彼らはそのあと私の職場にも事実確認の電話をいれてきたわ。私がわざと動揺した振りをして、ノーコメントだって答えたら、そのまま記事に載せたってわけよ」 「君はあんなことを自分でばらしたと言うのか。どういうことなんだ。そんなことをして、なんになるんだ」 「あなたには関係ないことだわ」 「君には日本のマスコミの怖さがわかっていない。何を考えているのか知らないが、こんなことをしたら、君はもう日本では仕事どころか、まともな生活もできなくなるんだぞ」  州波のことがまるでわからなかった。そして無性に腹が立った。これではまるで自殺行為ではないか。そう思いながら、芹沢は自分がなぜこんなに腹を立てているのだろうという気もしていた。 「わかっているわ、そのぐらい」  州波は平然としている。 「いや、わかっていないね。君は長い間日本を離れていた人間だから、日本のマスコミがどんなものか、本当の怖さを知らないんだ。こんなことをしたら、君はせっかく自分が築いたものをすべて失うよ」  州波は動じなかった。 「せっかくの君の実績も、名前も、いったんついた傷はもとには戻らないよ」  一瞬、州波は芹沢を見た。 「女性のスキャンダルは特にそうだよ。そう簡単には消えない。それなのに自分から公表するなんて、ばかげている。どうかしているよ。なぜこんなことをする? なあ、なぜなんだ、こんなことして何になると言うんだ。君はいったい何をしようとしているんだ」  一時はこの州波を、なんとかして窮地に追い込みたいと思ったこともあった。州波が苦しめば、明石も救われると信じていた。それが明石のためにしてやれる唯一の復讐だと思ったときもある。だが、いまは自分の気持ちが明らかに変化している。それに気づいて、芹沢は愕然とした。  州波というのは、少し見えてきたかなと思うと、次の瞬間まるでわからなくなるような女だ。冷静で緻密な計算のもとに行動しているかと思うと、突然とんでもない愚行に走る。そんな州波が不思議でもあり、もどかしくもあった。計算高い女だと決め付けてきたが、無防備なまま猛進し、自分から進んで傷つくことを望んでいるようにさえ見える。この女は、本当は何を望んでいるのだろう。芹沢は、それをどうしても知りたいと思った。 「日本という国はね、何か起きると誰か一人を悪者に仕立てあげるんだ。まるで魔女狩りみたいに、寄ってたかって吊るしあげるんだよ。その人に矛先を集中し、徹底的に非難することで、人は自分のなかでそれまで放置しておいた正義感に言い訳を用意してやるのさ。こんなに悪い人間を、これだけ批判できるぐらい、自分は正しい人間なんだってね。根本的な解決策なんてどうでもいいんだ。なぜそんなことが起きたかという理由なんて知ろうとしない。そしてね、その攻撃は、次の魔女が見つかるまで徹底的に持続する。君は、自分から進んで、その魔女に立候補したんだよ」  そんな州波を自分は救いたいと思っているのだろうか。芹沢はふとそう思った。だが、州波はそんな芹沢をあざ笑うように口を開いた。 「だからどうだって言うの」 「どうって、マスコミにいいように叩かれるよ」 「そんなことが怖いのなら、最初から私は何もしないわ。誰にどう思われても、何を言われても、私は自分が信念を持っていることに対しては、少しも恥じることはないと思っている。たとえ手段がどうあってもね」 「え?」 「覚悟はとっくにできているのよ。でなきゃ日本になんか帰ってこなかったし、こんなこと最初から始めたりしなかったわ」  州波の目の奥に、確かな決意が感じられた。何がこの女をこれほど強くさせているのだろう。 「こんなことって何だい。君は何をしようとしているんだ?」 「あなたには関係ないわ」 「だが、明石には関係あるんだろう? だったら俺にも関係あるよ」 「ないわね。私はただ、隠れている卑怯者を|燻《いぶ》り出したいのよ。スキャンダルが公表されて、私と当局の人間の関係がわかれば、それで恐怖を感じる人間が必ずいるはずなの。穴に煙を送って燻り出すようなものよ。いまはそれしか手がないわ。なまぬるい手段じゃだめなの」  芹沢はまじまじと州波を見つめた。 「どういうことなんだ。狸を燻り出すために、君は自分の身体に火をつけたっていうのか。自分が焼け焦げて、その結果死んでしまうことになっても、そこまでしても見つけ出したい誰かがいるということなのか?」  それほどまでして探しているのはいったいどういう人間なのだ。そう言いかけたとき、州波の口もとにかすかな笑みが浮かんだ。芹沢は不意に胸を衝かれたように、口走っていた。 「そうか。そういうことだったのか」  芹沢はじっと州波の目を見た。 「そいつが、明石を自殺に追いやった奴なんだ。そうだね?」  州波は黙ったままだ。 「君はやっぱり明石を救おうとしていたんだ」  芹沢を、熱いものが満たしていく。 「君は、君という人は、そんなにまでして明石を──」  そう思えば、すべてが繋がってくる。芹沢はこみあげてくるものを抑えて言葉を続けた。 「明石が君に何か大切なメモを残したというのはやはり本当だったんだ。それを探せば、明石の自殺の本当の原因もわかるというのか。誰が明石を追い詰めたかも」  州波は何も言わなかった。だが、そのとおりだと眼が語っている。芹沢はそれを確信した。目の前がやっといま開けたような気がした。 「康和銀行があんな騒ぎになったのも、やっぱりみんな君が仕掛けたことなんだな。何人もの人間に関わって、まるで遠隔操作をするみたいに、要所要所でキー・マンになる人間をうまく動かしていったんだ。それで君はまんまと康和銀行を窮地に追い込んだ。あの前代未聞の物凄い取り付け騒ぎも、すべてはやっぱりみんな君の計画だったってわけだ。康和銀行への復讐だったんだな。トヨカワに吸収されて、康和銀行の名前はもうすぐ消えるだろう。君は、その復讐にみごと成功した」  すべての疑問が解けたと芹沢は思った。 「いいえ、違うわ。まだ何も終わってはいないもの」  低い声だった。 「まだ何かあるのか。君は完全に康和銀行の息の根を止めるまでやめない気なのか。だけど、康和が完全に潰れたら、深刻な事態を巻き起こす。君だって無事じゃ済まないだろうし、関係のない人も巻き込むじゃないか?」  じっと芹沢を見つめ返す州波の眼が、強い光を放っている。その眼がしっかりと芹沢を捕らえている。この女は本気だ。本当にやる気なのだ。芹沢ははっきりとそう感じた。 「どうあっても康和銀行を許せないというんだな。完全に抹消する気なんだ」  州波はまだ黙って芹沢を見つめていたが、しばらくしてやっと視線をはずし、かすかに首を振った。 「康和を追い詰めるのは、明石を死なせた張本人が出てくるまでか?」  何を訊いても州波は答えようとしない。それでも芹沢はやめるつもりはなかった。 「康和銀行を潰してしまったら、損失隠しが闇に葬られる可能性があるからか。なあ、その隠蔽には、明石自身が深く関わっていたのじゃないのか。そしてそれが、明石を死に追いやった直接の原因なのだろう?」  芹沢は州波に詰め寄った。 「なあ、詳しく教えてくれよ。そしたら俺だって手伝えるじゃないか。君がやろうとしていることを、俺にも手伝わせてくれよ」  思わずそう言ってから、自分で言い出した言葉に驚いていた。そうなのだ。この州波となら、明石への同じ思いも、同じ痛みも、そして同じ目標も分かち合えるのではないか。そんな思いがあったから、自分はここへやってきたのかもしれない。 「あなたの助けなど必要ないわ」  州波は、だがぴしゃりとはねつけるように言った。 「私はこれまでも一人でやってきたし、この先もそれを変えるつもりはない。それに、私には強力な駒がたくさんあるもの」 「それはどうかな。あんなスキャンダルの種を撒き散らしてしまったからには、すぐに君は日本のマスコミに滅茶苦茶にされてしまうよ。たぶん自分で思っている半分も動けなくなるだろう。それに、男達がそんな君といままで通りに接するとは思えない。男を甘くみていると、とんでもないところで足をすくわれるぞ。協力者はたぶんもうほとんど誰もいないんじゃないかな」  皮肉をいっているのではない。心配だからなのだと、芹沢は伝えたかった。 「いいから、もう帰って」  その顔が、頑として芹沢を拒絶していた。芹沢は大きく息を吐いた。 「わかったよ。だけど、とにかく君の気持ちが変わったら、すぐに俺に連絡をくれ。いつでも協力するから」  芹沢は名刺を取り出し、裏に自宅の電話番号を書いて州波に渡した。 「これだけは覚えておいてほしいんだ。俺だって、明石の自殺の原因を誰よりも知りたがっている人間なんだよ。あいつを死に追いやった責任は、間違いなく俺にもある。明石が俺に助けを求めてきたことは事実なんだから。そして、俺はそれを無視してしまった」 「もういいわ」  州波の顔がかすかに歪んだ。 「いや、何度でも言うよ。俺は、そのことを忘れることができない。忘れちゃいけないと思っている。なあ、俺にも何かやらせてくれ。明石のためなら何だってする。きっと、少しは君の助けにもなれるよ」  それでも、州波は何も言おうとはしなかった。もうこれ以上いくら言っても無駄だろう。こんな思いを、州波に伝えようとしても無理なのだ。芹沢は州波に背を向けた。部屋を出ていくしかないと思った。州波はたぶん何もかも一人でやってのけるつもりだ。おそらく二度と電話すらしてくることもないはずだ。  もし、何か明石のためにできることがあるとしたら、それは自分で見つけるしかないのだ。もう一度最初からやり直しだ。そう思って、ドアノブに手をかけ、外に出ようとしたとき、州波が背後で声を発した。 「あなたなら、明石さんを助けられたと思う?」  振り向いた芹沢に、州波はまた訊いてくる。 「あの日彼がかけてきた電話に、もしあなたが出ていたら、あなたは彼を救えたと思う?」 「それは──」  不意をつかれて、芹沢は口ごもった。 「少なくとも、あいつを死なせはしなかったさ。なんとしても、自殺だけは思い止まらせたと思うよ」 「そうかしら」  州波はまっすぐに芹沢を見つめていた。 「いまあなたは、明石さんの自殺の原因を突き止めたいと言ったわね。明石さんのためなら何でもするって。だけど、それは何のためなの? それで彼を救うことができると思うわけ? 彼がなぜ死んだか、それを理解してあげれば、明石さんは報われると思うの? そもそもあなたは、彼の気持ちを理解できると思っているわけ?」  低く、抑えつけたような声だった。だが、州波の奥底からほとばしるようなものが伝わってくる。その一語一語が、芹沢の胸を鋭く射抜くような気がした。試されている、と芹沢は思った。 「いや、それは──」  言葉が出てこなかった。心の中まで見透かされているような気がした。芹沢自身でさえ気づくことがなかった部分まで、州波は容赦なく見抜こうとしている。 「──俺は死ぬのが怖い」  芹沢はやっと口を開いた。 「明石がどんな思いで死んでいったのかわからないけれど、俺だったら、たとえどんなことがあっても、自殺なんて絶対にできない。死ぬのは、やっぱり怖いよ。まして、自分で自分の命を絶つなんて、俺にはとてもできないと思う」  そう言い出してから、芹沢は自分がひどく正直になっているのを感じた。 「死ぬことって、人間にとって一番怖いことのはずだろう? 死ぬのは簡単だ、辛抱して生きろなんて人はよく言うけれど、本当の土壇場になったら、そんなに簡単に死ぬなんてことできないと思わないか?」  州波は凍りついたような顔で、じっと芹沢を見ていた。州波がなぜそんな顔をしたのか気になったが、芹沢はまた言葉を続けた。 「だけど、明石には死の恐怖以上に怖いものがあったんだ。自分で自分を殺せるほど、それほど何かを怖れていたのだろう。死ぬことさえ怖くないほど、絶望していたんだ」  かすかに州波の喉が鳴った。 「俺は知りたいよ。なんで自殺なんかできるのか。何があの明石をそこまで追い詰めたのか。そして俺は──、俺自身が救われたいのかもしれないな。たぶんそうだ──わからないけど」  言ってしまったあと、芹沢はなぜかほっとしているのを感じた。そうなのだ。州波が見抜いたとおり、自分は明石のためと言いながら、実は自分自身が救われようとしていただけなのだ。芹沢が顔をあげると、州波と正面から目が合った。だが、芹沢はその目を逸らさなかった。これでもうこの州波と会うことはないだろう。  ゆっくりと背を向けて、芹沢は今度こそ本当にドアノブを引いた。 「いいわ、こっちへ来て」  背中のすぐ後ろで、州波の声がした。 「え?」  芹沢は驚いて振り向いた。 「あなたに手伝ってもらうわ」  あっけにとられている芹沢をおいて、州波は振り返りもせずに部屋の奥へ入っていく。芹沢はあわてて後を追った。州波が案内したのは、奥の仕事用のコーナーだった。大きめのデスクに、二台のパソコンがでんと据えられ、その横にはファックスと二台の電話が並んでいる。州波がマウスに触れると、カラフルなスクリーン・セーバーが消えて数表が現れた。 「これなんだけれど、あなたわかる?」  州波が指し示した画面には、びっしりと数字が並んでいる。 「米国債の取引だな。あとはオプション取引か」  芹沢は一目見て、内容を理解した。 「そうよ」  芹沢はデータの細かい部分にまで素早く目を走らせた。 「これは──、もしかして、康和銀行のニューヨーク支店のものなのか? すごいじゃないか。これをどこで手に入れた?」 「それは言えないわ」 「大丈夫だよ、信用してくれ。俺は明石のためなら何でもすると言っただろう。明石にも君にも不利になるようなことは断じてしない。誓うよ」  芹沢は自分の思いが何とか伝わるようにと願った。 「わかったわ。明石さんが私の部屋に置いていったの。過去四年分の記録よ。亡くなったのが十一月十九日の夜だったから、たぶん十八日から十九日の夕方までの間に、彼は私の部屋に来て、作業をしていた形跡があるの。そしてそのままこれを置いていったのだわ。私は十八日の早朝から四日間、フランクフルトへの出張で留守にしていたのよ」 「そうだったのか。で、手紙とかメッセージはついてなかったの?」 「置いてあったのはこのデータだけよ。|光磁《M》気ディ|スク《O》が三枚あったわ」  パソコンの前に立ったまま、芹沢は反射的にマウスに手をのせ、素早く画面をスクロールした。州波が値踏みするような目で、操作を見ているのを感じた。 「ちょっと待てよ。何だこれ。ひどすぎる。ばかみたいに無謀な取引じゃないか。ざっと見ただけでも損ばっかりしてる。相場のことを何も知らない人間がやったことみたいだ」  次々と画面を送りながら、芹沢は思わずつぶやいた。 「あなたもそう思う?」  州波は満足そうに言った。 「あいつこんなことをやっていたのか。俺は債券取引は専門じゃないけれど、|資金繰り《フアンデイング》をやっているから損益計算には強いんだ。最初はトレーディングの勉強もずいぶんさせられたんだけど、もともとじっくり考えたり計算したりするタイプだから、動きの早い相場には向かないのでやめたよ。ボスに|短期金利市場《マネー・マーケツト》のほうをやれと言われた。そのかわり銀行の金の流れに関しては、相場一辺倒のトレーダーなんかよりはずっと詳しいよ」  だから何かと役に立てるよと芹沢は言いたかったのだが、州波は「そう」と言っただけで、あくまでそっけなかった。 「君はこれを全部突きあわせて損失額を計算してみたのか?」 「おおよそのところはね。でも、あなたはわりとパソコン操作に慣れているみたいね。他人のものを使うのに違和感がないみたいですもの」 「自分でもいろんな機種やソフトを使っているからね。こういうことは任せてくれ。ちょっとここに座ってもいいかな」  芹沢はそう言ってデスクの椅子を引き、腰をかけた。モニターをのぞきこむようにして州波がそばに立つと、あの香りが感じられた。頭の中を、以前この部屋で州波に乱暴したときのことが一瞬よぎった。そのことを思い出すと気持ちがかき乱され、目の前の画面に集中できなくなりそうで、芹沢は思わず頭を振った。 「どうかしたの?」 「いや。なんでもない。それより、データはこれだけかい?」  芹沢はいったん個別の画面を閉じて、データ全体を並べたリストのファイルに目を通した。項目別のリストを、順を追って開き、データの全体像を頭にたたきこんでいく。州波は明石の残した三枚のディスクをデスクの引き出しから取り出した。 「この三枚よ。一応全部に目は通したの。取引の流れはほぼつかめたけれど、もう一人別の人間の目による詳しい確認作業ができればいいと思っていたのよ。あとはどうやって証明するかが問題なのだけど」 「わかった。その作業を俺にやらせてくれ。今夜これ借りていっていいかな。すぐにデータを全部コピーして明日返すから。そうすれば俺も手分けして調べられる」 「どれぐらいかかる?」 「そうだな、これだけの量を、全部細かくチェックするとなると、ざっと三カ月。と言いたいところだけれど、その半分ぐらいでなんとかなるようにやってみるよ」  芹沢は頭のなかで全体の作業量をざっと組み立てながら言った。 「そんなに待てない。三週間よ」 「三週間? いくらなんでも、それは無理だ──」 「なら、もういいわ。頼まない」  言うが早いか、州波は横からキーボードを操作し、あっという間にデータを閉じた。 「ちょ、ちょっと待てよ。わかったよ。なんとかしてみる」 「そう」  州波はまるで表情を変えなかった。できるのが当然のような顔をしている。とんでもないことになったと芹沢は思った。 「データの分析を急いで済ませて、すぐに損失を全部把握しよう。あとは、それをどうやって隠したかを証明することだよな。データを丁寧に読んで突きあわせていけば、きっと何か出てくるだろう。本支店間の取引も、このデータを見ている限り不自然だし、取引の行なわれた日の市場の時価を調べることができれば、価格調整の事実や、飛ばしの実態もある程度までは証明できるんじゃないかな」  芹沢は興奮していた。これだけのデータを入手していれば、損失隠蔽の事実について、すでに証拠となる鍵を握っているのも同然ではないか。 「その通りよ。だけど、それだけですぐに隠蔽工作だと立証するのは無理があるわ。これが間違いなく明石さんの残したデータだという証明も難しいし、何より個人的なメモみたいなもので、直接康和銀行のデータだという証拠はないと言われればそれまででしょう。銀行のデータ・ベースと照合できればいいけれど、まさかそこまでは不可能でしょう。明石さん本人がこれを持って証言するなら話は別だけど、第三者の私達だけで、これだけ提出しても、なんとも説得力がないのよね。こんなデータだけなら他人がいくらでも捏造できるわけですもの。勝手にでっちあげたと言われれば反論のしようがない」 「そうか、それもそうだよな」 「それに、もし明石さんがこの損失のために死を選んだのだとしたら、公表するのはよほど確証を得てからでないと、康和銀行はきっと彼にすべての罪をなすりつけるに違いないわ。何もかも明石さん一人がやったことで、銀行はまったく関知していなかった。彼は良心の呵責に耐えかねて自殺したんだと言われたら、それで終わりですもの。それだけはなんとしても避けたいの」  芹沢は、極秘の取引データの存在に驚き、それが明石の手によって残されていたことに、さらに興奮していた自分を恥じた。 「せめて、隠蔽工作に直接かかわった人間とか、指示を出した人間の名前がわかれば、その人たちを追及することもできるのよね。これを本人達の目の前に突き付ければ何か得られるでしょう。明石さんが本店の役員に直接指示を受けたようなことを言っていたのは、記憶があるんだけれど、はっきりと名前まで聞かなかったから」 「わかった。それが抜けていると君は思ったんだな。明石がどこかにもう一つ、何か手紙かメッセージを残しているはずだと言っていたのは、これに関与していた人間のリストのことだったんだ」 「そうよ、明石さんのことだから、絶対にどこかに残してあると思うの。発見される危険性を考えて、わざとこの三枚のディスクとは別に保管したのじゃないかしら」 「すまない」  芹沢は心から詫びたいと思った。 「どうしたのよ、急に」 「そんな大事なことを、俺は君と会うための道具にしたんだな。さも俺がそれを預かっているというふうに嘘をついたのだもの、君はそうとも知らず手放しで喜んだはずだ。当たり前だよな。何と言ったらいいか、恥ずかしいよ」 「私がどれほど失望したか、あなたわかってる?」 「本当に申し訳ない」  芹沢は素直に頭を下げた。 「そう思うんなら、絶対にそれを見つけて」  州波の口調には、わずかではあるが、これまでにはない親密さが感じられた。ほんの少しだけれど微笑んだようにも思える。芹沢は驚いたように、州波を見つめた。 「どうかしたの?」 「いや、君は冗談を言って笑ったりなんかしない人だと思っていたからね」  州波の変化が嬉しくて、芹沢は思わずそう言った。だが、そういうことを口にする自分自身こそ、いつもと違う気がする。 「馬鹿にするなら、帰って!」 「待ってくれ。馬鹿になんかしていないよ。むしろその正反対だ。君は本当に凄い女性だと思うもの。いろいろな男達を操って、ついにあの康和銀行を潰してしまったくらいなんだから」  芹沢はあらためてそのことを確かめてみたい気がしていた。州波自身もさぞそのことでは満足しているのだろう。州波に対して抱いていた敵意や嫌悪感のようなものは、不思議なぐらい消えている。だが、その力に対する脅威は消えそうになかった。 「それは違うわ」  州波は苦々しく言い捨てた。 「どう違うんだ。その通りじゃないか。事実、君はその手で康和銀行という日本の大銀行を潰してしまったじゃないか。それだけでもやっぱり凄いことだし、怖いぐらいだよ」  それは芹沢の本心だった。州波はそのことにさぞかし自信を持っているだろうし、その手腕を誇示してもいいとさえ思う。 「いいえ違う。私が凄いんじゃないわ。そんなことが可能な日本という国が凄いのよ。こんな普通の一人の女が、ごく一部の人間の個人的な思惑にちょっと刺激を与えただけで、世の中がなんとでも動くのだとしたら、その方が凄く怖いことよ。何か不穏な動きがあったとき、それに対抗する健全な社会の自浄作用が欠落しているということでしょう」  芹沢はハッとして州波を見た。返す言葉がなかった。州波は自分が思っていた以上に、先を見ているのかもしれない。二十代の初めのころ、自分の限界を知らされて失望したのは芹沢と似ているのだろう。だが、ただ逃げ出した自分に較べて、州波は自分の力で向かっていこうとしている。そうさせているものはいったい何なのか、訊ねてみたかったが、州波の顔は頑としてそれを拒んでいた。 「この国は結局変化を嫌う国なのよ。長い間続いてきたものが、新しくなることに異常なほど恐怖を感じるんだわ。大切なものは簡単にすててしまうくせにね」  代々続いてきた家系が、血のつながらない養子に受け継がれるのを怖れて、州波のような女を排除したことを批判しているのだろうか。いや、口では変化を唱えたり、新しいものの良さを説きながら、救いようのないまで老朽化している現状をわかっているくせに、まだ本質的な改革から目をそらしている金融業界を嘆いているのだろうか。そして、そんなこの国の社会に対して、この|女《ひと》は確かに何かをしようとしている。  芹沢は州波によって、目の前に大きな問題を突きつけられたような気がした。そして、だからこそ州波という人間の行動を、最後まで見届けたいと強く感じていた。     2  次の日、自分を取り巻く環境がこうまで変わるとは、州波自身も予測していなかった。  もちろんある程度の覚悟はしていた。マスコミが騒げば騒ぐほど、目的も達成できるわけで、それは望むところだとも思っていた。  だが、「週刊新時代」の記事は州波の予想をはるかに超えて、またたくまに各種のメディアに浸透した。過剰反応だというしかない。だが、それすらも州波が自ら企てたことのはずだった。  最初の変化については、昼食時に実感させられた。州波が食事に出ようとビルの玄関に向かうと、そこに物々しい人だかりが見える。まるで舞台の花道のように、放物線を描いて二列の人垣ができている。玄関を通行する人間は、一人残らずその花道のまん中を通るしかないようになっていた。  テレビ局のレポーターらしい男女や、カメラの集団。あとは騒ぎを見つけて集まった野次馬達である。ビルの近くの道路には、機材を積み込んだテレビ局の車がずらりと並び、報道関係者用らしい黒塗りのハイヤーがどこまでも連なっていた。  エレベータから降りて、フロアを突っ切り、玄関に向かう州波を見かけた途端、その集団からざわめきが起きた。放物線が乱れ、両側から被いかぶさるように詰めかけた彼らは、マイクを州波の顔の前に突き出し、口々に脈絡のない質問を浴びせかける。それは、ほとんど罵声ともいえるほどのもので、何も答えずに前に進もうとでもしようものなら、州波を両側から取り囲み、行く手を遮ろうとする。切れ切れに耳に届く質問には、興味本位なものが多かった。 「どうやって、ああいう男性たちに近づいていくのですか?」 「交際相手のリストにあったなかで、どの男性がいちばん魅力的だと感じましたか?」  などという質問におよんでは、ただあきれるしかない。州波はまったく無視するつもりだった。答える気持ちなどさらさら起きない。だが、一人の大柄な男性レポーターが、まっすぐに州波の前に立ちはだかり、正面から挑むように訊いてきた。 「康和銀行の崩壊や大規模な取り付け騒ぎに関しては、どう思いますか? あなたが陰で関係しているというのは事実ですか?」  州波はやむを得ず立ち止まり、その男の目をじっと見つめた。 「康和銀行のような大銀行が完全に崩壊するとなると、関連企業を含む日本経済全体にも、この時期さらなる悪影響が生じるとは思いませんか? その責任問題も含めて、あなたも金融業界においでならば、それらの点について釈明されるべきでしょう」  男はすぐに次の質問を投げつけてくる。 「どうして黙っているのですか? 何も言わないということは、噂が事実だということですか?」  その声に、ほかのレポーターからも、州波の返事を促すヒステリックな声が重なる。州波は意を決したように、男のマイクに向かった。口を開きかけた途端、一斉にフラッシュがたかれ、カメラのシャッター音が重なる。州波は、まっすぐにその方向を見据えた。 「康和銀行は潰れるべくして潰れたのです。だめな銀行を、なんとかして潰さないようにしようとするから無理が生じるのです。あんな銀行は潰れてよかったのです」  思いがけない州波の言葉に、集団は色めき立った。テレビで放映する素材として、格好なシーンを提供しているのだろう。州波は、こちらに向けられたテレビ・カメラが、自分の顔のどんな些細な表情も見逃さずに捕らえているのを感じた。 「では、康和銀行が潰れて損害を受けた一般国民は、ただ運が悪かっただけですか。融資を存続できなくなった中小企業の経営者達は、どうなってもいいと言うのですか!」  男は鋭く迫ってきた。それに負けじと、横からも声が飛んでくる。「そうです、そういう弊害を考えたこともないんですか?」、「日本の失業率が過去最高を記録しています。今回のことでまた大量の失業者が出ますが、彼らはどうなるのですか?」、「企業の崩壊によって職を失う一般の人間は、ただの捨て石だとあきらめろと言うのですか。答えてください。どう思いますか?」  口々に叫ぶレポーター達の言葉は、まるで康和銀行が潰れたのが、すべて州波のせいだと決め付けている。だが、州波は少しもひるまなかった。 「これまで無理して潰さないようにしてきた弊害も、同じぐらい大きいでしょう。そのことについて、考えたことはありますか?」  州波の言葉に、相手は一瞬たじろいだ。だがまた思い直したように、その何倍もの質問が返ってくる。 「それは|詭弁《きべん》ではありませんか。だいたい、都銀を潰そうなんて、どういう目的があるのですか。競合相手の外銀から、あなたに巨額の金が支払われているという話も出ているようですが、それについてはどうですか?」、「そうだそうだ。外資系が日本市場を|席捲《せつけん》すると言われているけれど、日本の銀行なんかみんな締め出されて、消えてもいいと言うわけなのか?」、「なんとか言ったらどうなんだ!」  レポーターたちは、自分で口にした質問に、自ら激していく。その煽りで、われ先に州波を撮ろうと互いに押しあうカメラマン同士までが、ぶつかりあった。 「ばか、前に出るな、そこどけ!」という声に、「なによ、そちらのほうこそどきなさいよ。こっちが先だわ」とやり返す。報道陣の中でもいがみあいが起き、罵声が飛んだ。もはや冷静に質問する人間など一人もいない。もみくちゃにされながら、州波はまるで自分が犯罪者のように思われているのを実感した。  州波はカメラに向かって一歩踏み出した。 「あなた方はいったい何を見、そのカメラでどこを撮っているのです。いま日本で本当に起きていることを、あなた方はなぜ見ようとしないのですか? もし康和銀行が潰れることを憂うのなら、なぜ潰れるのか、本当に潰したのは誰なのか、どうして知ろうとしないのですか。何を排除すべきで、本当に必要なのは何か、他人が用意した言葉ではなく、評論家から聞いたコメントでもなく、あなた方自身の一人ひとりの言葉で、なぜ語り合おうとしないのです?」  一息に吐き出すような州波の言葉に、人々は瞬間動きを止めた。その前に、ほんのわずか細い道が開けた。騒ぎを聞きつけたビルのガードマンが、やっとのことで州波のところまで追いついたが、あっけにとられたように立ち尽くしている。  口を半分開いたままで、ストップ・モーションがかかったような人垣のなかを、州波は毅然と胸を張って歩き抜けた。  だが、騒ぎはそれだけで済んだわけではなかった。いったん動きを停止した人の群れは、また思い出したように州波のあとを追ってくる。  一度ビルのなかに戻った州波は、今後のさらなる混乱を予測して、警備会社のガードマンを雇い、移動用の車を手配した。ビルの警備員の協力も得て、役員用の地下通用口からひそかに抜け出し、待ち構えている報道陣を振り切るようにして、自宅のマンションに向かうしかなかった。  やっとの思いで広尾の自宅マンションに戻ると、十分もしないうちに、部屋につながるチャイムが何度も鳴らされるようになり、電話が間断なく鳴り続けた。両方ともそのままにしておいたが、耳をふさいで部屋の中にいる苦痛は想像以上だ。拷問を受けている気分にさえなってくる。マスコミ関係者の執拗さは、昨日芹沢が言っていたとおりだと、認めざるをえない気がした。  この調子では、部屋から出ることも不可能だ。芹沢の自宅へ電話をして、昨日渡した明石のディスクを自宅まで届けてもらうように頼まなければならない。こんな状態では玄関を出てホテルまで向かうのは不可能だった。  芹沢はまだ帰宅していないらしく、留守番電話になっていた。部屋の電話には出ないようにしているから、携帯電話のほうにかけてくれるようにメッセージを残しておくと、一時間もしないうちにかかってきた。 「やあ、大丈夫かい。テレビを見てどうしているかと思っていたんだ。君が会社を出るところがニュースで流れていた。大変だったみたいだな」  電話を取った途端、芹沢の心配そうな声が聞こえた。その声がなぜかひどく懐かしく感じられる。 「あなたの言っていたとおりになったわね。さすがに想像以上だったわ。いまもまだみんなマンションの玄関に待機しているみたいで、部屋から一歩も出られない状態なの。こんなことなら自宅に帰ってこないで、直接ホテルに行くべきだったと後悔してるわ。悪いけれど、あなたのほうからここまでディスクを持って来られないかしら?」 「わかった、すぐ行くよ。だけど当分君は身動きとれないだろうなあ」 「ボディ・ガードを雇うわ」 「かえって目立つんじゃないか。なあ、考えたんだけれど、いっそのこと、もちろんもし君がよければだけれど、俺の部屋に来ないか?」  州波は一瞬返事に窮した。 「昨日部屋へ帰ってから、データをプリント・アウトしたりして、いろいろやり始めてみたんだ。それで、いくつかつかめてきたから、一緒にここで作業したらどうかなと思って。ここならパソコンも揃っているし、そのほうが能率的だろう。パークハイアットは人目があるから、しばらくの間は行くのを避けたほうがいいだろうしさ。もっとも狭い部屋だから、君は嫌かもしれないけれど」 「嫌じゃないわ。だけど、逃げるような真似はしたくないの。身を隠すつもりもないわ」 「そう言うだろうと思ったよ。たしかに君はそんなことしたくないだろう。だけど、いまはこんな馬鹿げたことで時間をロスしている場合じゃないと思うんだ。それより少しでも効率よく作業を進めたほうがいいと思わないか?」  しばらく黙っていたが、州波はすぐに心を決めた。 「わかったわ。でも、いまはどっちにしてもこのマンションを出られない。玄関を通ることさえ無理だもの」  たとえ芹沢のところに行っても、彼らはきっと後をついてくるから同じことだ。 「俺にいい考えがあるから任せてくれる?」 「え?」 「大丈夫。俺に任せてくれ」 「それは、いいけど──」  何をしようというのだろう。確かにここから出ることができれば、気持ちはずいぶん楽になる。このままではまるで檻に入れられているのと同じだ。電話はすでにジャックをはずしてしまったが、玄関チャイムは断続的に押され続けている。いい加減にしてほしいと、叫びたい心境だった。  電話を切ったあと、芹沢の言葉が耳に残っていた。「任せてくれ」と言われたことである。考えてみれば、人からそんなふうに言われたことが、これまであっただろうか。逆に、「君に任せるから頼む」と言われたことは限りなくあった。明石の場合は特にそうだ。何度も州波に向かってそう言い、州波自身もそれを当然のように思ったのはなぜだったのか。逆は、おそらく一度もなかったはずだ。  だが、芹沢は任せてくれと言った。州波は、いま自分が不思議な安堵感に包まれているのを感じた。芹沢が何を考え、それが本当にうまく行くのかどうかはわからないが、少なくともいまはそれに頼ろうとしている。  そこまで考えて、州波は強くかぶりを振った。自分を戒めるためだった。どんな些細なことであれ、自分の気持ちが緩むのを、いまは何より警戒しなければならないのだ。  やがてまた携帯電話が鳴り、芹沢が玄関に着いたことがわかった。恵比寿の芹沢の部屋から広尾の州波のマンションまでは、車で十五分程度の距離である。芹沢の合図に従ってオート・ロックを外すと、まもなくエレベータのかすかな振動音が聞こえ、続いて部屋のドアをノックする音がした。  ドアを開けると、ワーク・シャツに古びたジーンズ姿の芹沢が立っていた。手には大きなバッグと、薄くたたんだダンボール箱を二枚抱えている。スーツ姿しか見たことがなかったので少し戸惑ったが、カジュアルな格好の芹沢は三十九歳とは思えないほど若く見える。 「やあ、運送屋です」  そう言って芹沢は、おどけて白い歯を見せた。照れ隠しなのか、それとも州波を気遣ってのことなのだろうか。州波はそんな芹沢の来訪をいまは素直に歓迎していた。 「なかに入って」 「カメラを持った人間がだいぶ残っていたよ。テレビ・カメラもまだ少しあったみたいだ。玄関にもマンションの前の道路にも、おまけに裏の駐車場のところにも」  芹沢は部屋に入ると、その様子を語りながら、慣れた手付きですぐにダンボール箱を組み立て始めた。ガムテープを使って補強し、そのなかに州波の荷物を入れて運び出すつもりなのだ。 「しばらくここに帰ってこなくてもいいように、必要なものは全部この中に入れてくれれば俺が運び出すよ。友達の車を借りて来たんだ。だから少々重くても大丈夫だよ」  芹沢の言うとおりにしようと思った。芹沢の家を拠点にすれば、少なくともひっきりなしにかかる電話や、玄関チャイムの音からは解放される。通勤や移動はレンタカーを借りるかタクシーを使えば、尾行さえされなければ問題ないだろう。数日分の必要な着替えや洗面具、仕事上の資料など、どうしても必要なものを急いでまとめると、スーツ・ケースとダンボールに詰めた。出張用に使っていたラップトップのパソコンを取り出し、普段愛用しているデスクトップのパソコンから、ほとんどのフォルダをコピーする。ついでに必要なデータの入ったディスクと、新品のフロッピーも箱ごとバッグにほうりこんだ。 「さすがに手早いね」  芹沢は荷造りを手伝いながら、感心したような声を出す。 「ニューヨークではしょっちゅう出張していたでしょう。それも、突然前日に出発が決まったりするものだから、いつでもどこにでも出かけられるように、普段から準備しておく癖がついてしまってるのね」  州波はそういう習慣も、これまでは当然のことのように思ってきた。芹沢は何度かに分けて部屋と駐車場を往復し、荷物の準備が整った順に運び出した。そこまでのところは問題がないが、あとはどうやって報道陣の目を盗み、玄関を出るかということになる。州波がそのことを言い出す前に、芹沢はおもむろに自分のバッグを指さした。その中から芹沢が取り出したものを見て、州波は思わず苦笑せざるを得なかった。 「さあ、これに着替えるんだ。ちょっと臭うかもしれないけれど我慢しろよ」  バッグの中からは、芹沢のものらしい古びたジーンズとシャツ、それにキャップなどが次々と出てきた。 「こういう姑息なことをするのは、君のプライドが許さないだろうけれど、ここはとりあえず無理のない方法をとったほうがいいと思う。案外こういう原始的な方法がうまくいくもんだ。靴も一応持って来たが、君はスニーカーぐらいは持っているか?」 「わかったわ。私もジーンズぐらい持っているけど、でもこれのほうがいいかもね」  州波は芹沢の差し出す服やジーンズを胸に抱えるように持って、隣りの部屋に行った。芹沢の服はどれも|皺《しわ》だらけではあったが、きれいに洗濯してある。しばらくながめていたが、決心したように着ているものを脱ぎ、思い切ってシャツに手をのばした。片袖を通したところで、ふと手を止めた。たしかに匂いがする、と思った。たぶんこれが芹沢の匂いなのだろう。だが州波には、それがなぜかひどく懐かしいもののような気がしてならなかった。  ふと明石の部屋で過ごしたときのことを思い浮かべた。まだ、半年あまりしかたっていないのに、州波を取り巻く環境はこうまで激変した。すべては明石が死んだからだ。  気を取り直すように急いで着替えを済ませ、憮然とした顔で出てきた州波を見て、芹沢はこらえきれないように吹き出した。心の底から笑っている芹沢を見ていると、州波は救われるような気がしてきた。生きているということはこういうことだ。こんなときにでも、つかのま心から笑うことができる。州波はそんなことを思った。  口紅もアイ・メイクもきれいに落とし、州波はまったくの素顔になっていた。そのうえ髪をまとめて上げ、黒いナイキのキャップを目深にかぶっている。洗いざらしのだぶだぶのジーンズを布ベルトで無理やりウエストに縛り付け、その上からよれよれのシャツを羽織った格好は、どうみてもちょっと華奢な身体つきの少年といったところだ。 「いや、笑ってごめん。でもなかなか似合うよ。ちょっと無理があるかもしれないけど、まあなんとかごまかせなくもないだろう。ずいぶん体格の違う兄弟ってところだ」  芹沢は州波をいろいろな方向からながめまわして、うなずいた。 「そうだ、これをかけてみて」  芹沢はいきなり自分の眼鏡をはずすと、シャツの裾で丁寧にレンズを拭き、つるの部分まで拭って州波に渡した。細い金属の黒ぶちの眼鏡は、州波の顔にはやや大きすぎるかもしれないが、変装用の小道具としては申し分がない。下手にサングラスをかけて、わざとらしくなるよりはずっといいと思えた。 「でも、眼鏡がなかったらあなた困るでしょう?」  そう言いながら眼鏡をかけて、州波は驚いたように芹沢を見た。 「これ、度が入ってない」 「内緒だよ」  芹沢はいたずらっぽい目で州波を見た。眼鏡をはずした芹沢は、思った以上に優しい目をしている。 「似合う?」  訊いてから、州波はあわてて目をそらせた。そんなことを訊くこと自体が、自分らしくないと思えたからだ。 「ああ、いいね」  思わぬ事態に追い込まれ、苦慮しているはずなのだが、芹沢といると、むしろそれを楽しんでいるような錯覚さえしてくるのが不思議だった。  それでも、部屋を出て、エレベータに乗るときになると、州波はさすがに少し気構えた。  また取り囲まれてマイクを向けられたらどうすべきか。あきらかに変装して出かけようとしているのがばれるのは、不本意だ。やはりもっと堂々と、正面切って出てくるべきだった。一瞬後悔がよぎったが、それでも会社の前での容赦のない質問や罵声を思い出すと、また気持ちも違ってきた。 「大丈夫。心配しないで、かえって堂々としていたほうがいいよ」  大丈夫という言葉を、今日は芹沢から何度聞いただろう。決して大丈夫ではない状況なのに、芹沢がそう言うと、本当にうまくいくように思えてくる。不思議な男だと思いながら、州波はいまさらのように芹沢を見あげた。スニーカーを履いて横に並ぶと、芹沢はかなり大柄で、エレベータの中では州波を背中に隠すようにしてくれる。そんなちょっとした仕草に、州波は心強さを感じた。  玄関ホールに着くと、管理人と警備員の男が立っていたが、州波だとは気づかなかったようだ。見慣れない二人連れに、ほんの一瞬不審そうな目を向けたが、また前を向いてしまった。 「な、大丈夫だろう?」  州波の心境を察したのか、芹沢が小さく耳打ちする。警備員たちの反応に気をよくしたため、州波は背筋を伸ばし、顔を上げて歩き出すことができた。目深にかぶったキャップと、芹沢から借りた眼鏡が、州波の顔を十分に隠してくれている。  ホールを突っ切り、玄関のガラスの自動ドアを出ると、報道関係の人間達が待ちくたびれた様子でたむろしているのが目に入った。小さな折り畳みの簡易椅子を置いて座っているレポーターの女性が、はためもはばからず大あくびをしている。重そうなテレビ・カメラを担いだ若い男が、チューインガムを音をたてて噛みながら立っていた。  いつ玄関に現れるとも知れない人間を待って、あてどなく、ひたすら待ち続ける彼らを見ていると、なかば滑稽でもあるし、気の毒にもなってくる。  州波は、誰とも目を合わさないようにして、マンションに沿って裏の駐車場に向かった。何人かが二人を目で追っていたようだが、そっけない一瞥を与えただけで、それが州波だと気づいた者はいなかった。  駐車場には、アメリカ製の大きな四輪駆動車が止まっていた。色は違うが、コネチカットの郊外の家で、州波が乗っていた二台目の車だった。あの車も、もういまごろは処分されているはずだ。  芹沢にドアを開けてもらい、車の中に乗り込むと、州波は歓声をあげたいような気になった。報道陣をまんまと|騙《だま》しおおせたことと、あたりを見下ろすような視線で走る車が、州波を愉快な気分にさせていた。できれば久しぶりに自分で運転したいぐらいだった。  運転席に乗り込んだ芹沢は、平然とした顔ですぐに発車させた。路地を出て明治通りに出るあたりまでくると、州波は夕方からずっと感じていた憂鬱な思いがすっかり晴れていくのを感じた。 「うまくいったね」  芹沢が言うのに、州波は大きくうなずいた。 「ありがとう。すごい解放感だわ」  言いながら大きく深呼吸をした。いままで重くのしかかっていたものが、肩からすっと抜け落ちていく。そしてそれを感じて初めて、自分がいかに長い間、重苦しい空間に封じ込められていたかを知った気がした。     3  芹沢裕弥の部屋は、恵比寿駅の東口から歩いて十分弱のところで、細い川べりに建つ古いマンションの四階にあった。路上駐車をしたまま部屋に荷物を運びこむと、近くの駐車場に入れてくると言って、芹沢は州波一人を残して出ていった。  小さな合板のげた箱の付いた狭い玄関に入ると、州波はさりげなくあたりを見回した。殺風景だが、こざっぱりした部屋である。玄関をあがって細い廊下を行くと、左側に六畳ほどの寝室があり、右側は八畳ほどの洋間になっている。そのまま行くと十五畳ぐらいのリビングがあり、台所の付いたダイニングにつながっていた。あとは廊下を挟んだキッチンの向かい側がバス・ルームで、男の独り暮らしには十分な広さだ。  州波が特に惹かれたのは、芹沢が仕事場と呼んでいる洋間で、壁に沿ってL字形にデスクが置かれ、パソコンが、古い機種も含めて四台も並んでいたことである。大きなプリンターやそのほかの周辺機器も入れて、さながらコンピュータ室という雰囲気になっていた。  地下鉄の広尾駅からなだらかな坂をのぼった、緑の多い一画にある州波のマンションに較べると、広さも内装もかなり質素だが、それでも快適な住まいだった。州波を迎えるというので、あわてて掃除をしたような形跡が残っている。州波はそれをほほえましいと思った。 「どうぞ、気楽にしてください。君みたいな人には狭くて可哀想だけれど、我慢すればここでも少しの間は暮らせるだろう。マスコミが騒ぐのもそれほど長くは続かないさ。せいぜいこの三、四日がピークってところかな。良かったらまたこの格好で、ここからパークハイアットまで通ってもいいしね」  すぐに部屋に戻ってきた芹沢は、わざと冗談めかして言った。 「まさか」  部屋に入ってからというもの、どこか落ち着かない州波を、芹沢がなんとかリラックスさせようと気遣っているのがよくわかる。 「奴らは移り気だから、別のニュースが出たら、またすぐにそっちのほうへ群がっていくよ。まあ、一週間か十日もすれば、もとの静かな暮らしに戻れるさ」 「そうだといいんだけど」  芹沢は寝室を州波に提供し、自分はリビングのソファで休むと言う。州波のほうがリビングでいいと言うべきかと考えたが、やはり寝室を使わせてもらうことにした。 「着替えるかい?」 「うん。あとでいいわ」  平静を装ってはいても、ぎこちなさがある。せめてしばらくは、あえて女らしい格好に着替えないほうがいいような気がした。もしかしたら不思議な安らぎのあるこの服に、もう少し包まれていたいという気持ちがあったのかもしれない。  スーツ・ケースを寝室に運び入れて州波がリビングに戻ってくると、いつのまにいれたのか、芹沢がコーヒーの入ったカップを二つ両手に持って、リビングのソファまで運んできた。 「一息ついたら、さっそくプリントしたものを見てみるかい?」 「そうね。することが山ほどあるわ」 「そうだ、忘れていたけれど、夕食は済ませたの?」  騒ぎにとらわれて、食事のことなど考えもしなかった。だが思い出したら急に空腹を覚えた。 「すっかり忘れていたわ」 「俺もだ。どうしようか、何か食べなきゃな」 「いつも食事はどうしているの?」  州波は芹沢になるべく迷惑をかけたくないと思った。 「外食が多いけれど、自分でも作る。これでも結構まめに料理するんだよ」 「ちょっと意外な感じね。明石さんとは大違いだわ。でも、もし材料があるんだったら、私が何か作ってもいいけど」  州波はそう言うと、芹沢は驚いたように州波を見る。 「俺からすれば、君みたいな人が料理するほうが意外だよ」 「そんなにびっくりすることないでしょう。お料理ぐらいできるわよ。ただ、いつもは仕事が忙しすぎて、あんまり作る機会がないだけ。それと作ってあげる人もね」  州波はあわてて付け足した。 「それはお互いさまかもしれないな」  芹沢は笑いながら先にたって、州波を台所に案内した。 「大したものは入っていないけれど、こんなもので良かったらなんでも使ってくれていいよ。足りなかったら、買ってくるけど」  冷蔵庫のなかをざっとみまわしてみると、熟れたトマトと、ナスやきゅうりなどがあるのを見つけた。州波は、冷蔵庫の片隅にころがっていたにんにくを、器用な手付きでスライスし、棚の奥で見つけたオリーブ・オイルで|炒《いた》めた。そこへ、ナスを|櫛《くし》形に切り、いったん炒めて、そこに生のトマトを足す。別に鍋に沸かした湯でスパゲッティを|茹《ゆ》で、さきほどのナスとトマトのソースを混ぜて、あっという間に仕上げてしまった。  途中気を利かせた芹沢が、隣りの部屋の住人が、テラスのプランターで栽培しているというバジルの葉を数枚もらってきたので、ずいぶん育ち過ぎたバジルだと言いながら、州波はそれを手で千切って入れる。  一緒に台所に立った芹沢は、州波の手際のよさに感心しながら、隣りで自分でも簡単なサラダを作った。床下収納の中から赤ワインを取り出してきた芹沢が、ダイニング・テーブルの上に二人分の食器類を並べると、それなりに夕食らしくなった。 「君はいろんな面を持っている人なんだね」  テーブルに向かいあって、不揃いなグラスにワインを注ぎながら、芹沢が言った。 「そうでもないと思うけど」 「銀行をひとつ潰せるぐらい手腕のある、恐い人だと思っていたら、俺のよれよれのシャツを平気で着て、こんなところにまでやって来た」 「しかたがなかったもの」 「それはそうさ。来たくはないけど、我慢して来たのはわかっている」 「そういう意味じゃないわ」  あわてて言い直す州波を、芹沢は愉快そうに見た。 「君には最初から、仕事一辺倒の辣腕女史というイメージがあったよ。だけど、気軽に台所に立ってこんなおいしいものを、あっという間に作ってしまう」 「こんなの誰だって作るわよ」 「だけど、すごくうまいよ。おそらくちょっとした火加減や、塩加減がどこか違うのだろうな。俺が作るとこうはいかない」 「お腹がすいているから、よけいにおいしいと感じるだけよ」 「いや、やっぱり君はいろんな面を持ちあわせた人だ」  確かに味はよかった。あり合わせのもので作ったわりには、かなり満足感がある。州波は自分がいつになくリラックスしているのを感じた。 「あなたの冷蔵庫には曲がったきゅうりが入ってたのよね」  思い出したように州波が言った。 「ごめん。だけど曲がっていても味に変わりはないだろう」 「文句を言っているわけじゃないの。むしろその逆よ。だって、日本で売っている野菜や果物って、形も大きさも揃っていて、変に綺麗なものばかりでしょう。曲がったきゅうりや、傷のあるナスなんてほとんど見かけない。日本人って、自然の恵みにまで型をはめて育てたがるのかなって思っていたのよ」 「そう言われてみれば、確かにそうかもしれないな」 「規格の中におとなしくおさまっていられない野菜は、食べてもらえないのよね」 「そんなことないよ! ちょっとぐらい曲がっていたり、傷があるぐらいのほうが、味があっていいもんだよ。なにも野菜だけに限らないことだけど」  芹沢はムキになってそう言ってから、照れたような笑顔を見せた。何を言おうとしているのかは、州波にもすぐわかった。 「そんなに、私に気を遣ってくれなくてもいいわよ」  そう言いながら、州波は思い切ってこの部屋に来てよかったと思う。  自分で自分を追い詰めるようにして、日本に帰ってきた州波である。ゆったりと食事を楽しむゆとりすらなく、今日まで過ごしてきた。それもすべて州波が自分で選んだことだ。だが今夜だけは、せめてつかの間、この芹沢の心遣いに、ただ素直に包まれていたい。 [#改ページ]  第七章 誤 算     1  翌朝六時十五分、州波はいつもより五分遅れて出社した。芹沢の部屋からタクシーを拾うのに手間取ったからだ。オフィスに着くと、すぐに支店長秘書から電話が入り、支店長の|疋田《ひきた》雅之が会って話をしたがっているという。支店長も秘書も、普段ならあと二時間半もしないと出社してこないところだ。  いずれ呼ばれると予感していた。だから、それが少しばかり早く来ただけのことだと思った。支店長が昨日は休みだったこともあり、今回のスキャンダルに関しては、まだ何も釈明ができていない。ニューヨーク本社にはすでに電話で簡単な報告を済ませておいたから、どちらにせよ、支店長には自分から直接話をするつもりだった。呼ばれたのは好都合というものだ。州波は廊下をゆっくりと歩いて、支店長室に向かった。  部屋の前で立ち止まり、ノックをしようとしたところで、向こうからドアが開いた。州波が来るのを見越していたように、次々と部屋から人が出て来る。顔ぶれを見ると、モーリス・トンプソン証券東京支社の主な役員達が、ほとんど揃っているようだ。今朝は役員会議の予定などなかったはずだ。ディーリング・ルームで開かれる毎朝のモーニング・ミーティングでさえ、まだあと四十分ほどしないと始まらない。  何事があったのかと、彼らを見送っていると、支店長の疋田が、奥のデスクで椅子から中腰になって手招きをした。州波は部屋の中に進み、疋田に勧められるまま、正面のソファに腰を下ろした。州波が座るのを見届け、一呼吸おいてから、疋田はおもむろに口を開いた。 「有吉君、たったいま開かれた臨時取締役会議で、君の役員職は解かれることが決定したよ」 「え、いま何とおっしゃいました?」 「ニューヨークのほうは、昨夜僕から連絡をしておいた。君は明日から出社しなくてもいいということだ」  疋田は州波の言葉を無視して、表情も変えずに言い放った。ここまでの騒ぎになったからには、何もないとは思っていなかったが、解雇されるとまでは予測していなかった。 「そんなばかな。どういうことですか?」 「形としては依願退職にしておいた。せめてもの武士の情けだと思ってくれたまえ。まあ、そんなことを言っても、アメリカ育ちの君にはわからんだろうな。とにかく、今日中に人事のほうで手続きを済ませるように。と言っても、君は本社採用だから大した手続きはいらないか」  州波の言葉になど、まったく耳を貸すつもりはないらしい。 「ちょっと待ってください。そんないきなり言われても。どうしてなんですか、理由を説明していただけませんか」  州波はソファから立ち上がり、デスクまで詰め寄った。 「何を言っているんだ君は。あんなとんでもないスキャンダルを起こしておいて、ましてや相手は|大蔵省《MOF》の人間だというのだろう。いまさら理由も何もないものだ」 「そんなことが理由で解雇ですか? あんなことはまったくのプライベートなことで、マスコミが勝手に騒いでいるだけです。仮にそのことが問題だとして、百歩譲って、万が一それが事実だったとしても、会社に不利益をもたらしているわけではないでしょう。私は東京に来てからだけでも、ずいぶん会社に貢献してきました。はっきりと特定できるだけでも、どれだけの利益をもたらしたか、疋田さんだってご存知のはずでしょう。これまで東京支店では決して獲得できなかった|大口取引《ビツグ・デイール》にも成功しました。香港の李ファミリーにしても、ミスター・ハニーフの親子にしても、これまで東京支店では一度も取引してくれなかったのではないですか? 彼らだけでも、どれだけうちに利益をもたらしてくれたか。何ならほかのも一件ずつあげてみましょうか。そんな私が、特別のボーナスをもらいこそすれ、|くびに《フアイア》される理由は断じてないと思いますが」  州波は自然に声が大きくなるのを感じた。明石のことがあるだけに、このところよけいに成績にこだわってきたのだ。なにかといっては仕事を妨害し、足を引っ張ってくる疋田の嫌がらせにも屈せず、確かな収益の数字をあげ、実績を作ってきたのも、手を抜いているように思われたくなかったからである。約定にこぎつけた案件は、むしろ昨年度より純増しているのだ。自分が裏で明石のために動いていることで、モーリス・トンプソンでの仕事にマイナスになったことは一切ないはずだった。 「不利益をもたらしていないだって、よく言えるもんだ。君はまったく認識が足りないようだな。あれだけの騒ぎを起こしておいて、会社が迷惑を被っていないと言うつもりなのか。仮に噂だったとしても、あんな形で|大蔵省《MOF》の人間まで巻き込んだとあっては、会社が被る不利益は計り知れないよ。客に対してだってどれだけ影響があるか考えてみたまえ。われわれは信用を第一にする証券会社なんだ」  疋田はまさにこのときを待っていたのだ。その思いが顔にも声にも表れていた。州波のような日本人女性で、しかも年下の役員がニューヨーク本社から赴任してきたことは、最初から愉快なことではなかった。だが、着実に業績をあげていく州波に対しては、これまで文句のつけようがなかったのである。州波さえいなくなれば、疋田にまた平安が戻ってくる。  州波は簡単に引き下がるつもりはなかった。解雇というのは何かの間違いだ。ニューヨークが自分を手放すはずがない。州波はすぐにもニューヨークに連絡を取りたかったが、時差を考えると、いまから電話をするのもためらわれた。 「どちらにしても、あなたのおっしゃるとおりにするつもりはありません。疋田さんの理不尽なやり方には、納得しろというほうが無理です。私のほうでも、直接ニューヨークと話してみますので」  まだ早すぎるのだ、と州波は思った。それに、辞めるときは自分で辞める。疋田にその決定権を与えるつもりなど毛頭ない。州波は後ろも見ずに部屋を出た。 「わかってないな、もう解雇は決定したと言ってるのだよ。素直に自分の非を認めたらどうかと思うね。こういうとき日本人なら、会社には多大なご迷惑をおかけして申し訳ないといって、深く頭を下げるものだ。まったく常識も謙虚さもなにもなくて、あれで本当に女なのかね」  秘書に向かって言っているのか、疋田の聞こえよがしの言葉が、州波の背中を追いかけてきた。廊下を足早に通り抜け、階段を駆け降りるあいだも、人とすれ違うたびに、自分に向けられる視線を感じた。どれもが好奇心に満ち、刺すように、あるいは探るように、州波の動きに照準を合わせてくる。とはいえ、州波がそちらに顔を向けると、あわてて目をそらすのだ。はっきりとではないが、囁き合う中傷さえ聞こえてくる。  それらを感じれば感じるほど、州波は顎をあげ、あえて胸を張ってまっすぐに歩いた。  自分の席に戻ると、デスクの上にメモが貼り付けてある。見ると、ニューヨークのアラン・スコルニックからの伝言だった。電話をかけるようにとのメッセージと一緒に、彼の自宅の電話番号が書かれている。彼らしいやり方だと州波は思った。  アランは、現在のモーリス・トンプソン証券本社でも、三番手に位置するやり手の男である。次期|最高《C》|経営責《E》|任者《O》の席を賭けての|熾烈《しれつ》な勢力争いのなかで、目下頂点に一番近い存在だといえる。それゆえ常に世界中の主な支店にも目を配り、優秀な持ち駒になり得る人材に対しては特別に目をかけ、細々とした配慮を怠らない。自分の将来にとってメリットのある部下に対しては、時間も労力も惜しまずコンタクトを保つのである。トップに行くほど忙しいと言われる米系企業における、典型的なエグゼクティブだと、州波は常々評価していた。  州波は腕時計を見て、受話器に手を伸ばした。もう家に着いているころだ。二度目の呼び出し音を待つまでもなく、受話器の前で待ちかまえていたかのように、すぐに懐かしい声が聞こえてきた。 「やあスナミか。今日も儲けたかね?」  いつものスコルニックの口癖だ。一瞬にしてニューヨーク時代に逆戻りしたような気がしてくる。州波は懐かしさを感じながら苦笑した。 「そちらもお変わりないようですね、アラン。お声を聞いているとなんだかニューヨークが恋しくなってきます」  その言葉に嘘はなかった。すぐにもニューヨークに飛んで行きたいぐらいだ。こんな一方的なやり方で、疋田のような男の言いなりになるなど到底耐えられない。今回のことは確かに歓迎されるものではないが、これまで州波が貢献してきたことや、会社にもたらした巨額の収益を考慮すれば、引き算されても十二分にあまりがある。ましてや、それを理由に解雇されることなどあり得ないのだ。 「東京でも相変わらず稼いでいるようだね。噂を聞いて喜んでいたよ」  さすがに彼はすべての数字を把握している。州波は満足だった。 「ありがとうございます。ご期待にそえる成績があげられて、私も嬉しいですわ」 「東京暮らしはどうだね。久しぶりの日本での生活を楽しんでいるかね?」  あたりさわりのない返事をしながら、州波は少し苛立っていた。わかっているくせに、スコルニックは自分からは何も言い出そうとはしない。本当は気になってしかたがないはずだ。 「あの、今回のスキャンダルのことでは、ご迷惑をおかけしました」  州波は自分から切り出した。 「いったいどうしたんだね、スナミ。話は聞いたけれど、君らしくないと思ったよ。だが、君のことだからすぐに立ち直ると信じている。心配はいらない。すぐに呼び戻してあげるから」 「え? でも、アラン。私は何も──」 「わかっているよ。私だって噂など気にしてはいない」 「それならどうして?」 「いいかねスナミ。少し冷却期間が必要なんだ。|大蔵省《MOF》がからんでいることだから、やむをえないよ。なあに、長くは必要ない。約束するよスナミ。一年ほどで必ず席を用意するから、少しだけ我慢してくれないか。君ほどの優秀な人材を失うのは、私にとっても痛手なんだよ。そのことは憶えておいてほしい。まあいい機会だから、長い休暇を取ったつもりで、大学にでも戻って、のんびりとしてみたらどうかね。ただし、まちがっても|競合相手《コンペテイター》には移籍せんでくれよ」  州波は失望を隠しきれなかった。口先だけの慰めや、とってつけたような冗談には、わざとらしさだけが感じられる。これまで何度難題をおしつけられ、そのたびにどれほどの収益をあげて、この男の出世を助けてやったことか。  だが、州波にはわかっていた。  一九八七年秋のブラック・マンデー直後、モーリス証券のロンドン支店で大量解雇をやってのけたのもこの男なのだ。久しぶりにロンドン支店を訪れたスコルニックが、にこやかな笑顔でディーリング・ルームをぐるっと一回りしたあと、即座に百五十人の社員に解雇を言い渡したというエピソードは、あながち誇張された話ではない。  部下に対する挨拶がわりに、毎回決まって、今日も儲けたか、と声をかけるボスである。にこやかな笑みや穏やかな口調とは裏腹に、相手に常に鋭いプレッシャーを与え、満足のいく業績をあげた者には賛辞を惜しまない。 「われわれは客のために働いているのではなく、出資してくれるわれわれの株主のために働いているのだ」と説く男である。すべてが業績本位、数字本位のアングロ・サクソン社会のエグゼクティブなのである。  スコルニックが、州波を一年で呼び戻したいと言うのも、まんざら嘘ではないだろう。だが、彼が興味のあるのは現在であり、今期の業績であり、どうなるかわかりもしない将来のことでは決してないことも、州波は知りすぎるほど知っていた。 「いいねスナミ。かならず帰ってきてもらうからね」  スコルニックはそう言い残して電話を切った。  こうなることは、心のどこかで覚悟していたような気もするが、いざとなると悔しさがこみあげてきた。彼のような上司に、自分の存在を認めさせ、実力を評価させるために、州波がこれまでどれだけのものを犠牲にしてきたかも、忘れることはできない。  ましてや、今回のことで、疋田のような男にうまく立ち回らせる好機を与えてしまったことが、なにより我慢ならない気がした。おそらく彼は州波について、あることないこと並べ立て、事実を曲げて報告しているに違いなかった。州波が失脚すれば、その分疋田自身が浮かびあがる。それが、州波が籍を置いていた、残酷なほど明快で、容赦のないパワー・ゲームの世界なのだ。  もう、うんざりだと州波は思った。疋田のようなくだらない男と、正面から闘う気力はとうに失せている。スコルニックの目を、もう一度自分に向けさせること自体が無意味に思えた。  これまで夢中になってきたはずの仕事や、保ち続けてきた気概はいったいなんだったのだろう。こんなことで無になるほど、頼りなげなものだったのだろうか。  州波にとってただひとつ、どうしても心残りだったのは、せめて最後の幕を自分の手で引けなかったことだけだ。  モーリス証券を辞めるしかないなら、一分でも早くこの場を立ち去りたいと思った。こうなってみると、東京に赴任してからのこの半年間近く、ほとんど周囲の誰とも親しく話すらしてこなかったことに、いまさらながら気づかされる。  遠巻きに投げかけてくる同僚たちの視線には、まるで犯罪者でも見るような蔑みと、無遠慮な好奇心しか感じられない。だが、彼らを一人一人つかまえて、声高に釈明してまわるわけにもいかないのだ。もし仮にそれができたとしても、自分のことを本当に理解してくれる人間がいるとは思えなかった。いや、理解してほしいとさえ思わない。  州波は精一杯胸を反らせ、毅然とした態度をくずさなかった。そうすることでしか、自分を保ち続けられない気がしたからである。これは自分で選んだことなのだ。あらかじめ予想していた通りのことが起きているだけだ。州波は噛みしめるように、心の中でそう繰り返した。  担当する客達に迷惑がかかるのを避けるため、居心地の悪さに耐えて、残務整理を終えると、夕方近くになってしまった。会社の玄関を出ると、道路に沿ってずらりと並んでいる、テレビ局の車が目に飛び込んできた。おびただしい数のカメラの放列と、報道関係者の群れも見える。州波はいったん立ち止まり、大きくため息をついた。こんな的外れなことに、いったいどれほどエネルギーを使えば気が済むのだろうか。  気を取り直して、足を踏み出すと、マイクをもったまま、金切り声で駆けよって来る中年女性がいた。彼女によると、いつ盗み撮りしたのか、州波と大蔵省の宮島との写真を掲載した写真週刊誌が、別の出版社からも今日発売になったのだという。 「存じません。私は見ていませんので」と答える唇の動きに連動するように、何台ものカメラが州波のすぐ目の前で閃光を放った。掲載誌の写真を差し出されて、目をやると、さすがに宮島の顔には目隠しが施されている。だが州波の顔だけははっきりと撮られていた。  もはや、これ以上計画を先延ばしにはできない。  その写真を見ながら、州波はそのことを強く悟った。早くしなければ、最悪の状況で明石のことが明るみに出てしまう。マスコミに下手に調べられて、州波とのことが表面化し、無責任に晒し者にされたり、銀行側に悪用されては取り返しがつかないことになる。できることなら、もっと十分に準備を重ね、証拠を固めてから行動を起こしたかったが、このままにしておけば、いずれ明石一人が犯人に仕立て上げられ、康和銀行の隠蔽工作そのものが闇に葬られてしまうだろう。それだけは、なんとしても阻止しなければならないのだ。  前に進もうとする州波に、人の群れが網となって被いかぶさってくる。それを無理やり引きちぎるようにして、かろうじて待たせておいたハイヤーに乗り込みながら、州波は瞼を閉じた。  また宮島に会うしかないだろう。あんな男の顔を、二度と見たくはなかったが、こういう事態になったからにはしかたがなかった。宮島のような男にまた屈することになるのかと思うと、たまらない気持ちになってくるけれど、それでも州波は心を決めることにした。どんなことをしても明石を守らなければならないのだ。明石の死を汚したくない。その思いだけが、州波の足を宮島のもとへと向かわせていた。  尾行をまくために、途中でハイヤーからタクシーに乗り換え、追ってくる車がないのを確認してから、州波は一度芹沢のマンションまで戻ってきた。車を降りるときも、玄関から少し離れた場所にタクシーを止め、細心の注意を払った。  さすがにここまで尾行してくる者はいなかったようである。息を殺すようにして階段を上がり、芹沢から借りた合鍵でドアを開け、部屋に入ると、あらためて全身から力が抜けるのを感じた。まるで、会社を出てからここに着くまで、ずっと息を止めていたのではないかとさえ思えるほどだ。州波は胸いっぱいに息を吸い込んでみた。  追われることにも、いつのまにか慣れてしまった。気を張り詰めて生きることが、すでに当然のように身に染み付いている。だが、この芹沢の部屋に入った途端、身体から空気が漏れていくように|弛緩《しかん》するのを感じた。それに気づいて初めて、いかに不自然な無理を自分に強いていたかを思い知らされるようだった。  州波は上着を脱ぎ、寝室に入った。狭くて殺風景な芹沢の部屋には、不思議なぬくもりがあった。固く強張った肩も、そして心も、泣きたいほどに癒されていく。州波はそのままベッドに倒れ込み、思いきり手足を伸ばして、天井を見つめた。  雨漏りなのか、それとも水漏れのあとなのか、二箇所も薄いしみのようなものがある。だがいまの州波には、それすら温かみが感じられ、優しげに自分を見てくれているように思えた。  日本に帰る決心をしたときに、救いなど要らないと思っていた州波だが、いまこうして芹沢の部屋で感じるこの安らぎは何なのだろう。できることならあとしばらくのあいだ、自分を包み込んでくれるようなこの部屋の空気に、このまま静かに浸っていたい。  しかし、すぐに自分を奮い起たせるように起き上がり、手早く着替えをすませて、バッグから手帳を取り出した。宮島に電話をするためである。呼び出し音を三回数えたところで、電話には若い女性が出た。 「おそれいりますが、宮島審議官をお願いできますでしょうか」  州波はできるだけ事務的な声でそう告げる。 「失礼ですが、どちら様でしょうか?」 「モーリス・トンプソンの有吉とお伝えいただければ、おわかりになると思いますが」  反射的にそう答えて、もうモーリスの名前を名乗ってはいけないのだと気がついた。一瞬言いようのない淋しさに襲われる。二十年間、ほとんど自分の皮膚の一部のように馴染んできた職場が、急に遠く手の届かない存在になってしまったのを感じた。  電話の相手は、そんな州波の思いなど当然知るわけもない。少々お待ちください、と言ったきり、そのままなかなか戻ってこなかった。やっと電話口に出てきたのは、別の男だ。低く押しつぶしたような声に、居丈高な雰囲気がある。 「審議官はいま会議中ですが」  男の声には、はっきりと嫌悪の響きが感じられた。州波が会議の終了予定を訊ねると、終了時間はすでに過ぎていて、どうなるかわからないという答えが返ってくる。 「では、あとでまたかけ直しますので、おそれいりますがその旨お伝えください」  伝言を残して電話を切った。そう伝えておけば、会議が終わった時点で宮島のほうから州波の携帯電話にかかってくることになっている。それがこれまでの二人のやり方だった。  しかし十五分を過ぎても、電話はかかってこなかった。州波はさらにあと十五分待って、もう一度電話をかけた。すると、さっきの若い女性が電話に出て、すでに宮島は帰宅したあとだという。それではと車の電話にかけなおしてみたが、それも留守番電話になっていた。  しかたがないので、州波は宮島が仕事場にしている、あの紀尾井町のマンションを訪ねてみることにした。久しぶりに訪ねる場所である。辺りを注意深く見回したが、人の気配はまったくなかった。さすがの報道関係者も、この場所までは嗅ぎ付けていないらしい。  玄関ホールに入り、オート・ロックのボタンが並ぶボードの前に立った。宮島の部屋の番号を押そうとして、州波は大きく深呼吸した。  このマンションに来たことは、これまでに合計三度あった。最初は、初めて二人だけで会ったときのことで、外で食事をしたあと、宮島に連れてこられたのだ。次は仕事が終わったあと、直接州波がここを訪れた。そして三度目、ここへ来たあの夜のことを、州波はこの先も決して忘れることはできないだろう。  ここへ来ることは、もう決してないと思っていた。あのあと宮島と会うときは、別の場所を指定し、ここへは近づくことさえ避けてきた。どんなことがあっても、二度とあんな思いをするのは耐えられなかったからだ。     2  あの夜の宮島秀司は、いつになく|饒舌《じようぜつ》だった。  三度目にこのマンションにやって来たのは、四月三日の金曜日。州波が初めて宮島と出会ってから、ちょうど四週間がたった日のことである。  近くのホテルニューオータニで食事を終え、二人でこのマンションに帰って来てからも、宮島は途切れることなく話を続けていた。普段より多めに飲んだワインのせいか、さらに強い食後酒のせいか、宮島はめずらしく赤い顔をしていた。  そんな宮島の様子を見て、州波はついに待っていた日が来たことを悟ったのだ。宮島の協力を得られるかどうかは、計画の進行を左右する重要な鍵である。計画の最後の場面は、どうしても宮島抜きには成功できないのだ。  だが、宮島にそのことを切り出し、承諾させるには、慎重のうえにも慎重にならざるをえない。少しでも方法を間違えば、すべてが無駄になる危険性をはらんでいる。タイミングをはかり、宮島の精神状態を考慮して、州波はずっと今日までその時機を狙ってきた。  アルコールの余韻を楽しむように、ゆったりとソファに座った宮島に、州波はさりげなく寄り添った。 「帰るなんて言わないでくれよ。今夜はゆっくりと話をしたい気分なんだから」  |媚《こ》びるような目を向けて、宮島は州波の手の上に自分の手を重ねた。酒の勢いを借りたからなのか、宮島の話し方はこれまでとはまるで違っている。州波はもう一方の自分の手を、その宮島の手の上にそっと置いて言った。 「ミスター・ブライトンから、最初にあなたのことを聞いたとき、彼はあなたのことを次の大蔵省を背負って立つ男だとおっしゃっていましたわ。日本の銀行の将来について、そのシナリオを書いている人だという言い方もなさってました。そんな方と、こんなふうにご一緒できるとは思ってもいませんでした」  宮島のことは、ブライトンから聞いて知ったように印象づけたかった。宮島は満足気に目を細めて、州波を見た。 「私もジョンからは君のことをいろいろ聞かされたよ」  なにやら意味ありげな目だ。ブライトンはどんな言い方で自分を宮島に紹介したのかと、ふと気になった。だが、州波は構わずに続けた。 「宮島さんは、省内でも日本の銀行に一番近いところにいる方なのですよね。要するに彼らにとって宮島秀司という存在は、もっとも頭が上がらない、怖い存在ということなんですわ」  だからこそ州波が近づいたのだとは、宮島は思いもしていないだろう。 「さあ、それはどうかな」  さりげない言い方をしながらも、宮島の眉が不自然に動く。自尊心をくすぐられた男が、思わず見せた仕草に、州波は確かな手応えを感じた。 「日本の省庁のなかでも、やはりなんといっても大蔵省はトップなのですもの。そのなかにいて、八十兆円近くもの日本の国家予算を意のままに決めたり、日本中のすべての金融機関を、自分の思い通りに操れるなんて、さぞかしおもしろい仕事だろうと思います」 「まあ、これぞ男の仕事だと言いたいところだけどね。しかし、これで人一倍苦労も多いんだよ」  宮島は、ためらいがちに州波の髪に手を伸ばし、ますますくだけた言葉を使い始めた。 「それはもちろんそうでしょうね。特に最近は、日本の金融システムにも次々と問題が出てきていますし、そのたびに対応に追われるのですものね」 「いまの邦銀なんて、多かれ少なかれどこも債務超過だからね。自力で資金調達ができないような非力な銀行もあるわけだ。それでもなんとか生きていけるのは、金が注入され、たえず流動しているからであってね。もしどこからも金が入ってこなくなったら、すぐにアウト。つまり生かしてやっているのは、われわれのお陰だと、感謝してもらいたいところだよ。その意味でも、彼らの生命維持装置のスイッチを握っているのは、われわれ大蔵省、まあ、はっきり言えばこの私なんだよ」  うまくいった。州波は内心そう叫びたかった。この言葉を言わせたかったのだ。それにしても、この男のなんと傲慢なことか。だがそんな思いは微塵も出さず、州波は|婉然《えんぜん》と笑みを浮かべた。 「やっぱり凄いですわ。彼らを生かすも殺すも、すべてはあなたの胸次第で、日本の銀行なんてどうにでもなるわけですね。ということは、もしあなたが手を下せば、都銀の一つぐらいは潰すこともなんでもないとか。いえ、まあ、いくら銀行局の審議官でも、そんなことは無理ですかしら」 「いや、そうでもないよ。さっき彼らの生命維持装置のスイッチは、この私の手の中にあると言っただろう。私がスイッチを押せば、いくらあがいても銀行は生き残れない」  宮島はことさら自分の力を誇示したいようだ。その裏側には、はっきりとした意図があるのも、すでに州波は見抜いている。 「つまり、あなたの裁量次第では、銀行を一つや二つ潰すぐらいは簡単だというわけですね?」 「ああ、簡単だよ。いいかい、君ならよく知っているだろうが、一般の会社が経営破綻を起こしたとき、最後に引導を渡すのは銀行だろう?」 「そうですね。銀行が見切ったときが、企業の最期です」  州波は相手の胸の内を探るような目を向けた。 「それと同じだよ。危ない銀行に向かって、最後通牒を手渡すのは大蔵省、つまりはこの私なのだよ。私にとっては、銀行をひとつ潰すなんてなんでもないことだ。君はどこか潰して欲しい銀行があるのかい?」  宮島の息が耳にかかった。あわてて顔を見ると、冗談とも本気ともつかない顔をしてこちらを見つめている。 「いまさらなにも驚いた顔をして見せる必要はないよ。君は最初から目的を持って私に近づいてきたのだろう?」  宮島はそう言って、指の背で州波の頬に触れてきた。 「それは、あなたも同じですわ」  表情を変えないように注意しながら、州波は言った。 「もちろんさ。お互いに無駄な遠回りをしているほど暇ではない。で、そうなんだろう?」 「ええ、その通りよ。一行だけ、どうしても潰してほしいところがあるわ」  州波は試すように言ってみた。 「ほう、おもしろいね。で、どこの銀行なのかな?」 「私は本気なのよ」 「いいとも、どこなんだ。言ってごらん」  宮島があまりに平然としているので、州波はさらに身構えた。 「理由は訊かないで」 「訊いていないさ」 「そちらの交換条件は?」  州波は精一杯平静を装った。こちらの動揺を悟られてはいけないのだ。 「その前に、どの銀行だか言ってみろよ」  宮島は本気で言っているのだろうか。それとも、からかっているだけなのか。迂闊に先を急いではいけないと、州波は自分に言い聞かせた。 「あなたはまるで驚かないのね? まさか私が言っていることを、ただの冗談だと思っているのではないでしょう」 「違うね。私はこれまでいろいろな人から、さまざまな頼みごとをされてきた人間だよ。だから、少々のことでは驚かない。それに君もこの業界に籍を置く人間だ。モーリス証券を代表して言っているのかどうかは知らないが、それなりの覚悟があってのことだろう」 「誤解しないで。会社とは一切関係ないわ。まったく私の個人的な希望です」 「私にとってはどちらでも大した違いはない。あとは、可能性とコストの問題だけだな」  州波は正面から向き直った。 「わかりました。あなただって、最初から目的があって私に近づいてきたわけでしょう? そちらの条件は何なの。それをまず訊きたいわ」 「それは、どの銀行を潰すかにもよるよ。それによって意味も手間も違ってくるからね。だから早く言ってごらん。君はどこを潰したいんだ?」  州波はあくまで銀行名を言うのを避けた。できるかぎり後回しにするつもりだった。こちらがいくら本気でも、宮島の本心はまだわからない。あとは両者の駆け引きである。互いの顔色を|窺《うかが》って、相手の手の内を読み取るのだ。駆け引きなら負けはしない。州波はゆったりと微笑んだ。 「じゃあ、本当にお願いするとして、具体的にはどうやって倒産に追い込むの?」  州波のシナリオはすでに出来上がっている。だが、何より必要なのは、いま宮島の口からそれを自分の考えとして語らせることだ。そして、その実行にあたっての後半部分では、実際にこの宮島の力を必要としていた。 「簡単だよ、われわれが公金を注入しなければいいんだ」  宮島はこともなげに言った。銀行へ投入している公的資金は、まるで自分の金だとでもいうような口ぶりである。 「投入しないとなれば、それなりに理由がいるでしょう。どうして、その銀行だけ救済しないのか、正当な理由がないと、いくらあなたでも……」 「さすが有吉州波だね。まったくその通りだ。面倒なことだよ。日本というのはやっかいな国でね。不良債権を抱えた銀行に、公的資金を投入するなんてことは、世界中どこの政府でもやってきたことだ。だけど、今回も、われわれは苦労したのだよ。ちょうどよいきっかけと、誰もが納得するようなエクスキューズが必要だったからね。国の経済を救ってやろうというのに、なんで言い訳がいるのかわからんがね」  まさか、と州波はあやうく声をあげそうになった。そういうことだったのだ。州波はいま、宮島の真意がすべて見えてきたと思った。 「住専問題のとき、六千八百五十億円もの公金を投入して、国民にだいぶ叩かれましたからね。ところが今回は三十兆円も使おうというのでしょう? そう簡単にはいきませんわね。だからどうしてもスケープ・ゴートが必要だったというわけですか? それで山一や拓銀を?」  宮島は愉快そうに笑い出した。 「ジョンが言っていたとおり、君はなかなか回転が早いね。それに男顔負けの度胸もありそうだ。しかも相場の腕も確かだそうだから、たしかに合格だよ」  そう言って笑うだけで、宮島は肯定も否定もしなかった。あと一言、言わせたいのだ。宮島本人の口で語らせることが、今夜はどうしても必要だった。それにしても、この男の傲慢さには吐き気さえ覚える。 「だがな、考えてみたまえ。何も問題のない健康な山羊なら、生け|贄《にえ》には選ばんだろう。選ばれるのには選ばれるだけの理由があるのだ。なにもわれわれのせいだけじゃない」  宮島はまた薄笑いを浮かべた。  いまは心して冷静にならなければいけない。州波はそう自分に言い聞かせた。やっと彼らの本心を突き止めたのだから。  つまりは、最近高まってきた、大蔵省による銀行救済措置への国民の反感を静めるために、彼らはこのへんでもう一行を犠牲者として破綻させておこうというのである。おそらくマスコミを使い、そのさらなるもう一体の生け贄を、さも痛々しい悲劇に仕立てあげることだろう。  そうすれば、国民の間に、やはり救済措置として、公的資金の導入やむなしの機運が高まるはずだ。そうしてまた、大蔵省の威信が復活するときが来る。  最初からそのつもりだったのだ。そうやって彼らの思惑通り、今後もさらに公的資金の導入をスムーズに遂行し、日本の銀行を支配下に置き続けていたいのだ。彼らはこれまでと変わらず君臨していける。 「よくわかったわ」  州波の申し出に驚かなかった理由も、それで納得がいく。それにしても、知れば知るほど底知れない寒気がする。だが、宮島がその気ならこちらもかえって話が早い。 「おもしろくなってきただろう?」 「ええ、とっても」  州波は弾んだ声を出してみせた。ただし、そう単純に利用されるつもりはない。州波は心の中でそうつぶやいた。 「それでは、次の段階に進みましょうよ。具体的な銀行崩壊のシナリオはどれで行きます? やっぱりどこかの証券会社のように簿外債務でいきますか? どこかに、都合よく海外支店あたりに簿外債務のある銀行が他にもあるといいけど」  州波は冗談を装って言ってみた。海外支店の簿外債務と聞いて、万が一、康和銀行の名前が出ることもあるかもしれないと思うと、息苦しささえ感じてくる。だが、そんなことはありえないはずだった。もしも大蔵省がすでに康和の損失隠蔽の事実を知っていたら、これまでになんらかの処置をとっているだろう。だから、宮島が知らないと答えたとき、州波は康和のニューヨーク支店の一件を告げ、おもむろに明石の資料を見せると言えばいいのだ。  宮島が大蔵省の権限で調査に乗り出せば、話は一気に解決を見る。証拠を渡すのと交換条件に、明石の名前だけは公表しないようにと注文をつけることはできるはずだ。思いがけない展開に、州波は期待と不安を交錯させながら、宮島の答えを待った。 「だめだね。飛ばしなんて、多少なりともどこでもやっているから、大して問題にならない。それに、同じ手を二回も使うのは私の主義ではないんでね。もっとまったく別の理由が必要だよ」  期待は即座に裏切られた。なんということだ、あと一歩というところだったのに。州波は動揺を隠すことにひたすら意識を集中した。だが、冷静に考えてみると、宮島は一度はその手を使ったということになる。そのことを語らせたことだけでも収穫だった。 「だったら、ほかに何か国民の反感を買う銀行の汚点を探すわけですか?」 「そのとおりだ。そうだね、君が何か一つでいいから、その銀行のスキャンダルを見つけてくればいいんだよ」 「スキャンダル?」 「ああ、そうだ。ただし、確たる証拠が必要だよ。東京地検の特捜あたりに、提出できるような資料か、さもなくば、ちゃんと証言台に立ってくれるような証人だな。いや、そんなことまでしなくても、マスコミにもっともらしく書かせるという手もあるかもしれん」  宮島は余興の種でも考えるような顔で言う。まったく、どういう神経をしているのだ。州波はまじまじと宮島を見た。 「あなたは簡単に言いますが、スキャンダルを見つけることなんて、そんなに容易なことではないでしょう」 「そうでもないさ。都銀のスキャンダルの種ぐらい、掃いて捨てるほどあるよ。なんなら、それも教えてやる。ただし、行動するのは君の仕事だよ。私が前に出るわけにはいかないからな」 「それはもちろん、そのつもりですわ。でも、そんな冗談みたいに簡単にいくものかしら」  宮島はどう思っているのかわからないが、自分はこの計画のためにすべてをかけ、このことのために日本に来たのだ。 「私は本気で言っているつもりだがね。さあ、どの銀行か言ってみなさい。どこを潰したいのか言わなければ、どうしようもないだろう」  言ってしまえばもう引き返せない。そう思うとすぐには声が出なかった。州波はしばらくためらい、だが、ついにその名前を口にした。 「──康和銀行よ」  言ってすぐに胸が締めつけられた。宮島の反応を見るのが怖かった。 「康和か、君が潰したいのはあの康和なのか。いや、なるほどね、そいつは愉快だ」  宮島はそう言って、さもおかしそうに笑った。宮島がなぜこれほどおもしろがるのか、そのことがひどく気になった。 「あそこなら話は早い。あそこの森という副頭取をマークするんだな」  こともなげにそう言う。まるで一番たやすいところを選んだとでも言いたげだ。 「副頭取?」 「ああそうだ、彼は出歩くときにはいつも護衛を雇っている。彼自身も、防弾チョッキを身に着けるのを欠かさないらしい。あちこち泊まるところを転々としていて、もう自宅にも長い間帰っていないんじゃないかな」 「どういうこと?」 「それは、自分で見つけるんだな。私がここまで言ってやったんだから、それぐらいは自分でやらなければ。まあ、ひとつヒントを教えてあげると、康和銀行の貸し渋りと、あとはコレだ」  宮島はコレと言うとき、人さし指で自分の頬に斜めに一本線を書いた。 「なんですか、コレって?」  州波は、宮島の仕草をそのまま真似た。 「わからない? そうか、君はずっとアメリカにいたから、こういうことは理解できないのか。しょうがないな、みんな教えてやらなければならんのか。つまりは、彼と、いや康和銀行と、と言うべきだけど、暴力団組織との関係を洗えと言っているのだ──」  そこまで言って、宮島は突然言葉を切った。 「ねえ、どうかしたの?」 「しっ、何か音がしないか?」  宮島はしきりにあたりを見回した。その顔つきが、警戒心のためか強張っている。 「いいえ、何も聞こえないけど」  州波はわざと間延びした声で答えたが、身体の芯が震えあがるのを感じた。思わず上着のポケットを手で押さえる。まさか、この中に入っているものの正体がわかってしまったのではないだろうか。そう思うと、州波は宮島の顔が直視できなかった。 「まあな、まさかこんなところに誰も忍び込むはずはないか」  宮島は気を取り直したようだった。しかしそれ以後は、副頭取の名前も、暴力団の名前についても、康和銀行の名前でさえ、とにかく固有名詞を口にするときは、極力声をひそめるようになった。そんな様子を見ていると、宮島が話している内容が嘘ではないということがわかる。州波はもう一度確かめるように、おそるおそる宮島を見た。 「だけど、暴力団との癒着なんて、どうやって証拠をつかめばいいかしら」  独り言のように州波が漏らすのを聞いて、宮島の顔がにやりと笑った。まるで別人だと州波は思った。この話になってから、宮島は確かに顔つきまでが変わっている。いつもの穏やかで紳士的な高級官僚の顔は、すっかり消え失せていた。 「なあに、君のその綺麗な身体を使えば簡単だろう?」 「え?」  州波は、思わず宮島を見た。どういう意味なのだと言いたかった。 「訳ないことじゃないのかね。君はこれまで、世界中の投資家を相手にしてきたぐらいだから」  野卑な目付きだ。州波は宮島の言ったことの意味を知って、悔しくてならなかった。いまのいままで、仕事にそういうことを持ち込んだことはない。それは州波の意地でもあり、貫き通した信念でもあった。もし明石のことがなかったら、こんな手段で宮島に近づくことは決してなかっただろうし、ブライトンや、ミスター・ハニーフやミスター・リーにしても、ただ仕事上のことが目的ならあんなふうにはならなかったのだ。  だが、それをいってみてもしかたがない。事実いま自分のしていることを思えば、反論すること自体が無意味に思えた。 「私はこれまで一度だってそんな方法で|取引《デイール》を決めたことはありませんわ」  州波は精一杯の誇りを保って、やっとそれだけを口にした。 「まあ、そういうことにしておくか。正面切って、そうです、なんて肯定する女はまずいないだろうからね」  もうそれ以上何も言えなかった。この計画を決意したとき、自分のすべてを捨てたはずではなかったのか。宮島の言うことに、いまは惑わされているときではない。 「まあどちらにせよ、君が自分でうまくやってくれ。そうだ。ついでに、ニュースを流す手配も考えたほうがいいな。新聞記者を紹介してあげるよ。近いうちにこの男を訪ねてみるといい。ただし、わかっているだろうが、私の名前は決して出さないように」  宮島はさらにそう言って、手帳の後ろから一枚名刺を抜き取って州波に手渡した。 「極東新聞の経済面の記者ですか。なんとか説得してみます。ただ、こんなまともなジャーナリストが、こちらの言うとおりに、|書かせ《ヽヽヽ》の記事なんて書いてくれるとは思えないけど」 「彼には、昭洋銀行からかなりの額の個人融資が流れている。家を建てるときの住宅ローンだよ。本来ならば審査を通るはずのない金額だ。そうでなければ、あんな記者風情にあれほどの家が持てるわけがないんだ。それを匂わせば、どんなふうにでも記事を書いてくれるだろう。康和銀行は、昭洋銀行にとっては言わばライバル行だから、康和銀行を叩くような記事を書くのならば、昭洋銀行に対する面目も立つことになるから、二つ返事で引き受けてくれるはずだ」  それではまるで恐喝ではないか。州波はあらためて宮島の力と、その周到さに驚いた。 「極東新聞といえば、日本の大新聞ですよね。たとえ、確かな証拠をつかむことができたとしても、そうそうこちらの思うとおりには、掲載してくれないでしょう」 「甘いな。記者とはいっても所詮サラリーマンだよ。君達のいるアメリカ企業と違って、日本のサラリーマンというのは、いくら成績をあげても、特別なボーナスなんか出やしない。われわれのような官僚だって同じことだ。プライドや使命感だけでは、人間なんてそうそう生きていけるものではないさ。仕事一筋に真面目にやっていたって、所詮、がちがちに固められた社会のシステムからは出られない。それならどこで得をするか、賢い人間ならそれをまず考えるものだ。金というのは、頭のいいやつのところにだけ回ってくるものだ。そんなことは君達が一番よく知っていることじゃないか。それに新聞社の人間と銀行というのは、お互いに共存関係にある。いろいろな局面で互いに持ちつ持たれつ、そこが日本の社会のいいところなんだよ。君もこれからずっと日本で仕事をしていくのなら、青臭いことを言ってないで、よく覚えておくといい」 「どういうこと?」 「まったく、こんなことも君は知らないのか? 都銀が新聞社の連中の個人融資や住宅ローンを面倒見てやるかわり、記者のほうは、多少のスキャンダルを大目にみて公表しないでやったり、必要とあればいろいろな書かせの記事を載せてやったり、そんなことはこの国では常識だ。そうだ、新聞社だけでなく、極東テレビも使えば申し分ないな。こちらのほうは私に任せてくれ。民世党の永山先生を使えば、わけはない」  宮島は自慢げにつけ加えた。新聞とテレビを使って、康和の暴力団とのスキャンダルを流せば、国民の間に康和に対する強い反感が芽生えるだろう。森副頭取をはじめとする幹部役員の豪勢な暮らしぶりや、傍若無人な接待風景もテレビで流して、さらにその風潮を煽るというのだ。  そうすれば、そんなでたらめな銀行に、他の銀行と同じように、公的資金の注入による救済措置をとるのには反対だとする気運が高まってくる。そうすれば大蔵省は、国民の強い反感を反映した形で、公的資金の投入を打ち切らざるをえなくなる。それが康和銀行を崩壊に導くシナリオだった。 「そうなれば、あとは放っておいても康和銀行は自然に潰れるしかないというわけですか……」  州波はそう言いながら寒気を覚えた。これが官僚の政治力というものなのだろうか。一国の経済を担う省庁の、しかも金融システムの要ともいうべき人間が、組織の都合だけを優先させ、あるいは私欲のために、自在に事を運んでいく。  こうして潰れた康和銀行から、いや、生け贄にされるしかない無力な銀行から、大量にあふれ出た失業者の実態を、痛々しい犠牲者として報道させ、今度は大蔵省の保護体制の必要性をアピールする。  ばかげている。州波は叫びそうになるのを抑えるのに苦労した。もしもこんなふうにして、すべてが進んでいるとしたら、この国ではいったい何を信じていけばいいのだろう。この先どんな未来図を描けばいいというのか。 「いいかね、君は幸運だと思わなければいけないよ。この世は力のあるところに人が集まり、金も集まってくる。それは何も日本に限ったことではないだろう。人や金を動かしたいと思うなら、権限を持つことさ。権限を持つ者こそがすべてを自由にできるわけで──」  宮島の声が、州波の耳を素通りしていく。州波はただ無声映画を見るように、宮島の顔をずっと見ていた。そして心のなかで繰り返していた。  父よ、これがあなたが生命を賭けて託した日本なのですか。あなたが身を挺して、守ったものは何だったのですか。それで、何かが変わったのですか。あなたは死ぬべきじゃなかった。あなたは生きて、自分の手でそれを為すべきだった。 「宮島さん、康和銀行への公金の注入を見直す必要があるというコメントを、テレビで話してくれませんか? あなたなら、多大な影響力があるでしょう」  州波のなかに、はっきりとした別の計画が輪郭を現してきた。 「私が? 冗談だろう。この私がマスコミなんかに出るわけにはいかないじゃないか。わかったよ、テレビに誰か出して、コメントするように言おう。誰か下の者を出させるよ。万が一何かあっても問題のない人間をね。そうだな、井村あたりがいいか」  またしても逃げられてしまった。 「井村さん、ですか?」  聞き直しながら、州波は目まぐるしく頭を回転させていた。何かないか。ほかにいい手立てはないだろうか。この男を、このままにしておくわけにはいかない。 「まあ、そのへんは私にまかせなさい。君が心配することではない」 「わかりました。これで万事うまく行きますね。きっかけは、私が作ります。すでに私のほうでも準備ができていますから」 「ほう。きっかけを、君がねえ。どんな準備なのか、私としては興味があるね」  宮島はまじまじと州波を見た。 「彼らの逃げ道を塞いでおく、とだけ申しておきますわ」  州波は思わせぶりに微笑んでみせた。計画通り、すでにことは進行しているのだ。手抜かりはなかった。だが、宮島にそれを教えるつもりはない。 「なるほど、君もなかなかやるね。ジョンの言葉に間違いはなかったということだな」  感心するような宮島の言葉に、微笑んで礼を言いながら、州波は次に切り出されるだろう言葉を待った。 「さて、このあとだが……」  いよいよ来た。 「今度はあなたからの条件ですね」  州波は身構えた。 「いや、なに、大したことを頼もうというわけではないよ。まあ、なんだ、このマンションもだいぶ古くなってきたからね。そろそろ買い替えて、もう少し広いところに移りたいと思っているんだ。とはいえ、買ったときよりずいぶん値下がりしているから、売るとしたらせいぜい七千万円がいいとこだろう」  いきなりマンションに話題が飛んだので、州波はじっと宮島の顔を見つめた。 「実はいい出物があってね。この前見つけて、すっかり気に入ったんだ。ただし今度のは少々高くつく。かなり下げさせたのだが、不動産屋はどう頑張っても十二億五千万までだと言ったよ。不動産屋の手数料やもろもろの費用を入れると十四億は必要だ」  唐突な話である。何を言い出すのか州波には予想がつかなかった。だが、宮島の顔を見ているうちに、しだいに言いたいことが飲み込めてきた。 「つまり、その資金を私に出せと?」 「せっかちだな。まあ待て、そんなことは言ってないよ。ただ、君には巧みな錬金術があるだろう? ジョン・ブライトンほどの男が太鼓判を押したぐらいだ。その腕は想像がつくさ」  宮島の要求が、やっと完璧に理解できた。 「なるほど、私にその七千万円をお預けになって、十四億に増やせとおっしゃるわけですね? あなたが元金を提供するのであり、あくまでも運用ということで、なにも私が自分で支払うわけではないからいいだろうと」  金を要求しているのと同じことだ。決して元本を減らすことなく、確実に七千万円を十四億円に増やす。二十倍の運用利回りを約束しろと言っているのだ。しかも、どんなことがあっても名前を出さないようにと、念を押すことだけは忘れない。 「君は、本場仕込みの|金融派生商品《デリバテイブ》のエキスパートだというじゃないか。なにも君の懐が痛むわけじゃないのだから、どうせなら、大いに|テコの原理《レバレツジ》とやらをきかせてくれたまえ。今後のことも考えて十八億、いや、きりのいいところで二十億と言いたいね」  まるで言いたい放題ではないか。短期間で、しかもそんな虫のいい投資話など、世界中を探してもあるわけがない。だが、宮島は平然としていた。 「役人暮らしなんかに、そういつまでもしがみついている気はなくなったんでね。このへんですっぱりと切り替えて、次の人生を考えることにしたよ。元大蔵省官僚だけの持つ神通力や特権は、この先の社会でもそうそう消えるわけはない。それなら、省内にいて、小|煩《うるさ》い連中の批判にさらされたり、見せかけだけの屈辱的な処分を受けるよりも、ずっと気楽にやりたいことがやれるじゃないか」  恥知らずな要求をして、人任せで大金を得たあとは、どこかに天下りでもして、のんびりと遊んで暮らすつもりなのだろう。 「できるかね?」  宮島は探るように州波を見た。 「私はプロですわ」  州波は、はっきりとそう答えた。  口許に自然に笑みが浮かんできた。動かせる資金が七千万円だけに限られていたら、それはほとんど不可能だ。現物の株式の売買だけなら、まず実現は無理だろう。だが、州波にはいくつもの方法が用意されている。すべては州波の望み通りだった。宮島は、自分から罠に飛び込んできたのだ。 「いい答えだ。気に入ったね。では、これで話は決まったな」  州波は大きくうなずいた。だが、それで終わったわけではなかった。宮島は目を細めるようにして州波を見た。 「さてと、それでは、あとは調印式といこう。これだけの話をしたのだ。君も覚悟はしているだろう。お互い人質の交換に、身体を預けあうというのはどうだね。それが洗練された大人の契約というものだろう」  宮島は、値踏みするような目をして言った。 「ジョンから君を紹介されたとき、いい女だと何度も聞かされたよ。あいつ、二十代の若者みたいに、青臭いことを言っていた。君にずいぶん入れあげているみたいだったから、いい年してまるで純愛じゃないかとからかってやった。だから、君がどんな女か早く見てみたいと思ったものだ。一度ぐらい、とびっきり鼻っ柱の強い女を抱いてみたいとも思ったしね」  浅ましい男だと州波は思った。|虫酸《むしず》が走るほどに汚らわしい。かといって、もうここまできてしまったら、あと戻りはできないのだ。州波は大きく息を吐いてから、ことさら凜として顔をあげ、胸を反らせて言い放った。 「わかったわ」  そんなに欲しいなら、こんな身体など惜しくはない。いくらでも好きにさせてやる。覚悟などとうにできているのだから。州波は自分から寝室に足を向けた。  州波がその寝室を飛び出すまで、それから三十分もたっていなかった。  服を着る間も惜しむように、州波は宮島の部屋をころがり出た。エレベータのなかで、乱れた髪を直しながら、イヤリングを忘れてきたことに気がついたが、二度と部屋に戻るつもりはなかった。それよりも、一秒でも早くこの場を立ち去りたい。エレベータが降りていく速度が歯がゆくて、州波は何度も一階のボタンを押し続けた。  玄関を出たあと、どこをどう歩いたのか、そしてどうやってタクシーを拾ったのかも、覚えていない。ただ、疲れきった身体のなかで、自分の耳だけが正常に機能しているような気がした。その耳が、ベッドを出るとき投げつけられた宮島からの言葉を、執拗に覚えている。  あのとき、宮島は突然ベッド・サイドの明かりを点けたのだ。  暗くしたままでいてくれるように頼んでも、頑として聞き入れなかった。そして、明るい光のなかで、州波の身体のすみずみまで眺め始めたのである。宮島の好色な目付きは、一瞬強い驚きを示し、失望から、すぐに好奇の色に変わったかと思うと、やがて屈辱的なまでの憐れみへと変貌した。  宮島はすぐに身体を離した。そしていっさい手を触れず、まじまじと州波の一点を凝視した。ゆっくりと時間をかけて、|舐《な》めるように肌を這う、その残酷で無遠慮な視線に、州波はただ歯を食いしばるしかなかった。 「なんだよ、さんざん|焦《じ》らして、それでこれなのか。しかし、もったいないよな。この傷さえなければ、綺麗な身体なのに」  二度の手術に耐えた州波の傷跡は、その一言で新たな血を噴き出した。 「……かわいそうに」  その言葉が止めを刺した。州波の自尊心が容赦なく踏みつけられ、どくどくと脈打っている。もしも、心というものがひとつの臓器なら、いまそれを覆っていた被膜が無惨に引き剥かれ、血が沁み出して、ひりひりと腫れあがっているに違いない。  こんな男に見られたくはなかった。州波は声にならない叫びをあげた。  宮島は落ちていたブラウスをつまんで、汚いもののように州波の胸に落とした。それですばやく身体を覆いながら、州波はベッドから逃げ出した。もうこの場にいる必要はなかった。身づくろいをしている州波の背中に、また宮島から言葉が浴びせられる。 「あんな銀行をひとつ潰したぐらいで、どれほど稼げるのか知らないが、こんな身体を晒してまで、君もよくここまでやるよね。もっとも、そんなことは私には無関係だ。私は目的のものさえ手に入ればそれでいいから。まあ、しっかり頑張ってよ」  蔑むような声だった。州波は一言も発しないまま、逃げるように部屋を飛び出した。  部屋に着いてすぐ、州波はシャワーを浴びたいと思った。宮島が手を触れたところを、くまなくきれいに洗い流してしまいたかった。だが、その時間さえいまはない。これですべてが終わったのではないからだ。  むしろここから始まるのだと、州波は自分に言い聞かせた。心を癒す暇も、身体を休める時間も、いまは惜しい。何より、こんなことで自分の気持ちが萎えてしまうのが怖かった。少しでも弱気になれば、すべてが崩れてしまい、二度と立ち上がれないかもしれない。まだまだ、しなければならないことが残っている。その思いだけが、かろうじて自分を支えているのを感じた。  州波は自分のベッドに座り、わきの電話に手を伸ばした。一度腕時計に目をやってから、すぐに記憶のなかの番号を押す。相手は香港のチャールズ・リーと、ニューヨークのアブドラマ・ハニーフである。呼び出し音を無意識に数えながら、州波は大きく深呼吸をした。声の震えを相手に知られてはいけない。 「ハーイ、アビー。元気でした?」  いつもの声を出せたことに、州波は満足していた。電話の相手もまた、いつもと変わらない調子で州波の電話を歓迎している。数千億円という資金を、まるでサッカー・ボールの一つとでも考えているような、彼らの底抜けの明るさが、いまの州波にはせめてもの救いだった。彼らの健康なしたたかさは、宮島のような世界に住む人間には、永遠に無縁のものだとあらためて思う。  州波は、いま彼らからむさぼるようにパワーを吸収しているのを実感した。そして、州波のいつにない早口の説明も、彼らには問題なく通じている。 「うん、よくわかったよ。だけどスナミは、日本株はやらないんじゃなかったのか。あんな洗練されていない|市場《マーケツト》は嫌いだと言っていたのに、東京に赴任してから、すっかり日本人に染まってしまったというわけだね」  親密さを増した州波に、最近の彼らは親しげな口をきいた。すでに州波の客という立場を超えた仲になったことが、これまでにない連帯感を生みだしている。 「いい? 二回は、繰り返さないからよく聞いて。実行するときは日系の証券を通さないほうがいいわ。外資系の証券会社で、それもいくつかの会社に分けて売り注文を出すこと。そのほうがあとで大蔵省がうるさく言ってこないと思うから。ただし、できるだけ積極的に、市場へのインパクトが大きくなるように攻めてね。もちろん|現物《キヤツシユ》だけではなく、|金融派生商品《デリバテイブ》もやるのよ。そして引き際はいつも以上にすばやくね。プレーはくれぐれも短時間で、早く手を引くことが肝心よ。まだあと少し準備が必要なの、スタートの合図は私がするから、しばらくは連絡を密に取りあいましょう」  多くを告げなくても、彼らなら州波の言葉に隠された意味を理解するはずだった。そして、州波の決意がどれだけのものかも知っている。 「もう一度はっきり言っておくけれど、これは私のまったく個人的な行為で、会社とは一切関係のないことよ。いいわね?」 「わかっているよ。だけど、ひとつだけ訊いてもいいかな。あなたがどうしてこんなことをする気になったのか、不思議でしょうがないんだ。だってあなたは、こういうことを一番軽蔑していたはずだろう? 市場を意のままに操作できるなどと、侮ってはいけないというのが、あなたの口癖だった。市場を|冒涜《ぼうとく》する人間を許せないとも、あなたは言っていたじゃないか?」  州波は一瞬言葉を詰まらせた。だが、ひと呼吸おいてから、静かに声を発した。 「──だからなのよ」 「え?」 「市場の本当の力も、そして怖さも、なにもわかっていない人間達に、はっきりと思い知らせてやりたいのよ」  だからといって、こんなことをする自分を、決して許す訳ではない。州波はそうもつけ加えたい気持ちを、あえて抑えた。 「なるほどね、そういうことか。よくわかったよ」  彼らからの返事も、その言葉だけで十分だった。州波は確かな手応えを感じた。この方法しかなかったのだ。彼らにも、決して損はさせない。だが、いくらそのつもりでも、どんなリスクが待ち構えているかは、誰にもわからないのである。市場は、いつも人の裏をかく気まぐれな生き物だということを、州波も彼らも知り過ぎるほど知っている。  最後の一件の電話をかけるために、州波はさらに重くなった手で、また受話器を取った。 「はい、メイソン・トラストです」  電話を取った若い女性は事務的な声を出した。こんな夜遅くでも、思ったとおりまだオフィスに残っている。 「岸本さんはおられますか?」 「あいにく、支店長はいま会議中でございますが。あの、失礼ですがどなたさまでしょうか?」  相場の世界の人間らしく、ひどく早口だ。 「有吉と申します」 「あ、大変失礼いたしました。少々お待ちくださいませ。有吉様のお電話だけは、おつなぎするように言われておりますので」  州波の腕時計で、ちょうど二分間経過したことを確認したとき、岸本が電話に出てきた。 「やあ、君か。ちょっと会議中でね、待たせて悪かった」  いつもの親密な声である。 「例の件ですが」  州波はすぐに切りだした。それだけ言うと、岸本は事態を察したようだ。 「ついに来たか」 「ええ。あなたの会社も、もう十分康和銀行からはおいしいものをいただいたでしょう。そろそろ、その手を離してくださいます?」  それだけで、岸本はすべてを理解した。 「やっぱり、本気だったんだな。最初、この話をもちかけられたときは驚いたけれど、正直言って、交換条件としては悪くないと思ったよ。だけど、よくあれだけの大口顧客を、僕に譲る決心をしたなと思ってね。とはいえ、厳しい客のことだから、あとは僕の腕次第というところかな」 「例のことは、とにかく慎重にお願いします。私としては、最も効果的なタイミングを狙っていきたいと思いますから。康和サイドの材料は、それほど時間をかけなくても、揃えられそうです。準備が整ったら、すぐにも行動に移します」 「わかった。今夜中にニューヨークに連絡しておくよ。大丈夫、上院議員のバック・アップがあるんだから問題はない。それに、もともと提携破棄は予定の行動なんだから。そうだな、ここぞというときが来たら、二日で決着をつける。そしたらすぐに発表するさ。発表はニューヨーク時間がいいんだったよな。内々で正式な決定がおりたら即座に連絡するよ。それまではくれぐれも極秘だから」  岸本は、あえてロビンソン三世の名前は口にしなかった。州波には、そんな細やかな気遣いが嬉しかった。 「お待ちしています」 「それが君の出陣の合図というわけか。なあ、僕もあそこの株、売ろうかな?」  岸本は冗談とも本気ともつかない声で言った。 「私と一緒に地獄に落ちるおつもりなら、どうぞお好きに」  突き放すように、州波は言った。 「怖い|女性《ひと》だ」 「お褒めをいただいて、ありがとうございます」  それだけ言って、電話を切った。  岸本まで道連れにするつもりはない。その気持ちは十分に伝わったはずだ。ハニーフ・ファミリーやリー家の人々のように、あり余った資産を動かして、マネー・ゲームを真に楽しめる人間しか巻き込むつもりはなかった。巨額の金が動くときの、その凄まじいパワーのおもしろさも、そして怖さも、笑い飛ばせる人間にしかできない勝負なのだ。  岸本への電話を切った途端、全身から力が抜けた。  ついに始まってしまった。スタート・ボタンを押したのは、誰でもないこの自分なのだ。いまからもう一度電話を取って、すべてが巧妙に仕組まれた悪いジョークだったと笑ってみせれば、彼らは何と言うだろう。少なくとも、いまならまだ間に合う。  だが州波は、もう二度と引き返すことはできないことを知っていた。あとは、岸本の連絡を合図に、東京市場を舞台に渾身の大勝負を展開するのだ。援軍に不足はなかった。完全にルールを無視したゲームである。  州波は全身に震えが走るのを感じた。背中の中心から四肢に向けて、縮みあがるほどの寒気が伝わる。  恐怖か、いやもしかしたら歓喜なのか。  市場を前にして、これほどまでに血が騒ぐ思いも、かつてないことだ。これまでの二十年間、少なくとも金融市場という戦場に身を置きながら、ここまでの緊張も興奮も、感じたことはない。  逃げ出せるものなら、すぐにでも逃げたい。この瞬間、目の前に何者かが出現し、その凶暴な力によって、奈落の底まで引きずりこんでくれるのなら、州波は喜んで身を任せるだろうと思った。たとえそこがどんなところでも、いまのこの現実よりは何倍も安らかなはずだ。  州波はふと後ろを振り返った。今夜は、いつものあの視線にさえ見放されたのか。州波はそのままベッドに倒れ込み、ゆっくりと目を閉じた。     3  紀尾井町のマンションは、相変わらず静まりかえっていた。 「はい」とだけ告げた不機嫌そうな男の声で、州波はわれに返った。  二度と来たくはない宮島のところへ、今日またやって来たことも、思い出したくもないあの夜をいつまでも引きずっているのも、すべては明石のためだった。明石の残した資料を公にし、一件を解明するのに陰で少しは協力を頼めるのではないかと、期待したからである。  すでに宮島の望み通りの金を渡してある。そのことだけでも、宮島が州波の話を聞くぐらいの義務はあるはずだと思った。  留守なのかもしれないので、あきらめて帰ろうかと思った矢先の返事である。エントランスにある、オート・ロック・システムの小さなスピーカーから聞こえてきたのは、低いけれど確かに宮島本人の声である。 「あの、私です」  州波は短く答えた。セキュリティ・システムのカメラは、マンションへの訪問者の顔を、宮島の部屋まで伝えているはずである。 「有吉です」  返答がないのでもう一度声をかけた。それでも宮島からの応答はない。かといって、玄関ドアのロックがはずれる音がするわけでもない。しばらく待って、やはりもう一度声をかけてみようと州波は口を開いた。 「有吉州波ですが、宮島さん……」 「何を考えているんだ。頼むからもうこんなところまで来ないでくれ。また誰かに見られたらどうするんだ」  あわてたようなかすれ声が、州波の声を遮った。 「まわりには誰もいませんわ。マスコミ連中もまいてきましたから」  そう答えてから、州波はあらためて周囲を見回してみた。玄関フロアは依然静まりかえり、外の植え込みの向こうにも、まったく人の気配さえない。 「いや、それでもとにかく困るんだ。やつらはどこに隠れているかわかったものじゃないし、またどんな写真を撮られないとも限らん。考えてもみてくれ。あんな記事や写真が雑誌に載って、私がどんなに迷惑をしているか、君にわからないわけじゃないだろう」  州波には、部屋のなかでインターフォンに向かっている宮島の顔が見えるような気がした。意気地のない男だ。あれほどのことを豪語していたのに、すべては薄っぺらな虚勢にすぎなかったのか。州波は宮島の姿に、哀れみすら感じた。 「記事のことでは思わぬご迷惑をおかけしてしまいました。申し訳ないと思っています。そのこともあって、何度もお電話したのですが、行き違いになったようでしたので直接ここにまいりました。突然で申し訳ありませんが、できれば少しだけでもお目にかかれませんか。ぜひお聞きいただきたいお話もありますので──」  州波はできるかぎり事務的な言葉を選んで、部屋に入れてくれるよう伝えた。だが、宮島の返事はない。 「例の銀行のことで、もう一度最終的な確認をさせていただきたいと思っております」  州波はあえて康和銀行の名前を出さなかった。宮島の言うように、万が一誰かが聞いていないとも限らないからだ。だからこそ、少しでも早くオート・ロックを開けてほしかった。 「何のことを言っているのか私には見当もつかないね。それに、君とは二度と会うつもりも、話をするつもりもない。悪いけれど、今後一切私には近づかないでくれ。ここもまもなく引き払うつもりだし、もともと君とはまったく関わりがないんだから」 「でも──」 「これまでもなかったし、この先もない。君と会ったのは、君の会社の上司と一緒だったときだけで、二人きりで会ったなどということは一度もなかったんだ。君と私は一切無関係だ。いいね。そういうことだよ」  宮島は念を押すように繰り返した。 「わかっています。でも、一つだけ、それだけなんです。どうしても──」 「いや、もう話すことは何もない。わかったね。わかったら、頼むから早く帰ってくれ」  最後はぴしゃりとそう言い放って、宮島は乱暴にインターフォンを切った。あれだけの犠牲を払って金を渡したのだから、万が一の場合は、明石の一件だけは頼んでおきたかった。どうあっても、このままで引き下がるわけにはいかないのだ。  州波は気を取り直してまた部屋番号を押してみた。そして、さらにもう一度押す。だが、それっきり宮島は二度とインターフォンに出ることはなかった。  卑劣な男だ。州波は思わず口のなかでつぶやいた。  やはり、来るべきではなかった。仕方なくマンションの玄関をあとにしながら、州波はひどく後悔していた。明石のことに関して、最後に残されたかすかな道を自分が閉ざしてしまったように思えてならなかった。  宮島に期待したことが甘かった。あんな男を買いかぶって、いっときでも頼ろうと考えたことが何より悔しい。  マンションの玄関を出ると、身体にまとわりつくような湿気が州波の全身を包んだ。いつの間に降りだしたのか、細かい霧のような雨だ。暑くもないのに、身体の奥から気持ちの悪い汗が滲み出てきた。州波はそのまま歩き出した。雨とも汗ともわからないものが、髪を湿らせ、|滴《しずく》となって生え際から首筋を伝い、背中へ流れていく。  州波はバッグから大判のハンカチを取り出し、ごしごしとぬぐうように首を拭き始めた。宮島がよく唇をつけたあたりだ。そう思うと、あのみじめな記憶が甦ってくる。自分が途方もなく汚れてしまったような気がした。  許せない。なんとしてもこのままにしておくわけにはいかない。雨のなかを歩きながら、州波は何度も何度も首筋を拭った。     4  州波が宮島のマンションに行っているころ、芹沢は慶子の家を訪ねていた。  明石が巻き込まれていた康和銀行の損失事件を、慶子にも教えてやるべきだと思ったからだ。そうすれば、何か参考になるものが見つけられるかもしれないとも思えた。銀行を出る前にこれから行ってもいいかと電話をかけ、芹沢はそのまま明石家に向かった。  玄関わきにはみごとな|紫陽花《あじさい》の鉢が置かれている。その鮮やかなピンクの花は、この前会ったときの慶子のブラウスを思い出させた。あの夜のことを考えると、どういう顔をして家に入ればいいのか気後れを感じたが、芹沢のこだわりをよそに、慶子はまるで何事もなかったように迎え入れてくれた。 「久しぶりね。元気だった?」  慶子はそう言って、芹沢を広いリビングに案内した。芹沢は勧められたソファに座る前に、部屋の隅に飾られた明石の遺影の前まで歩いた。庭に面した一角に白い布で被った台が置かれ、明石の大きな写真に、白いトルコ桔梗と線香がそなえられている。  芹沢は台の正面に置かれた座布団に座り、線香に火をつけて両手を合わせた。両わきに真新しい岐阜提灯が置かれ、淡い水色の薄絹の中で、回り灯籠が規則正しく回転している。音もなく回るその蒼白い影の中にいると、芹沢は自分も現実とは別の世界に引き込まれそうな気がした。 「もうすぐ新盆だからって、明石の母が送ってきたの。うちにはお仏壇がないからこんなふうにするしかなくて」  慶子が弁解がましい声を出した。しゃれた洋風のリビングのなかで、確かにそこだけ不似合いな雰囲気がある。いかにもにわか仕立てに用意したようで、それゆえよけいに不慮の死を感じさせて痛々しい。 「こうしていると、やっぱり明石は死んでしまったのだなと、いまさらながら思うよ」  芹沢はそう言いながら座布団から立ち上がって、ソファのところに戻った。 「でも、哲彦のいない生活も、なんとか少しずつそれなりに稼働してきたのよ」  慶子のそんな言い方も、特別に無理をしているような感じがなくなってきた。そのことに勇気を得て、芹沢は思い切って康和銀行の損失隠しのいきさつを切り出すことができた。  話を聞いても、慶子は驚くほど冷静だった。明石の仕事に関しては、できるだけ聞きたくないとでも思っているのだろうか。康和銀行にとって都合の悪いことに触れるのは、むしろ極力避けたがっているようにさえ感じられた。 「前にも言ったと思うけれど、康和の方には本当によくしてもらっているのね。この家のローンのこともそうだけど、実は私の就職についてもいま銀行のほうで探してもらっているところなの」 「そうか。だけど、こんなことを言うと、慶子は怒るかもしれないけれど──」  そんなふうに前置きをして、芹沢はいったん慶子の顔色を窺うように言葉を切った。 「|穿《うが》った見方をすれば、それも康和銀行の狙いなんじゃないかな。こんなに明石家の遺族を大事にしているんだという態度を示して、慶子のほうから不平や内部告発が出ないようにしようという彼らの魂胆の表れだと言えなくもない」  それが芹沢の正直な感想だった。いまになって思えば、康和銀行の態度については、通夜のときにもどこか違和感を覚えてしかたがなかった。 「それでもいいの。たとえ裕弥の言う通りだとしても、私にとってはやっぱり助かるのよ。生きていくというのはそういうことでしょう。いくら真実でも、いくら正義でも、いまさらそんなことをほじくり出して、それで私達親子が救われることなんて何もないじゃない」  慶子の言い方は、決して投げやりでもなく、かといって開き直ったというのでもなかった。だからこそ、そう言われると芹沢には反論のしようがない。もしかしたら、銀行の思惑も、明石の置かれた立場も、すべてを何もかも知っていて、慶子はあえてそれを隠したがっているのではないかとさえ思えてくる。そうでなければ、何か口止めされているか、あるいは何かの交換条件を言い渡されているのではないか。 「本当言うと、もうそっとしておいてほしいのね。少なくとも私達を巻き込まないでもらいたいの」  直接の遺族が納得しているのに、他人がいまさら何をしようとしているのかと言わんばかりだ。 「それはもちろんだよ。慶子にとっても、そして明石にとっても不利益になるようなことをしようなどとは、俺は一切思っていないよ。だけど──」  何を言ってもうまく伝えられそうにない。そう思うと気持ちが萎えた。芹沢が黙ると、急に部屋が静かになった。気まずい沈黙のなかで、岐阜提灯の淡い影だけが、相変わらず回り続けている。  やがて、慶子が思い余ったように口を開いた。 「わかったわ。裕弥がどうしても調べたいと言うのなら、必要なものは何でも持って行って」 「いいのか?」  慶子はうなずいた。 「あなたがそれほど言うのには、きっとそれなりの理由があるからでしょう。あるいは哲彦があなたにそうしてもらいたがっているのかも知れないわね」 「ありがとう。慶子にとって悪いようには絶対にしないから」  芹沢は心からそう言った。 「裕弥がそうしたいのなら、好きなようにしてちょうだい。だけど、哲彦が残したものはニューヨークでほとんど処分してしまったから、こっちに送ってもらったものはあまりないのよね。ただ、あの人の字が書かれているものだけは、最後に捨てようと思っていたから、手帳類とかノートぐらいはとってあったと思うの。ダンボールに入ったままで、まだ一度も開けていないような状態だけど」  慶子はそう言って、芹沢を二階の納戸へ案内した。三畳間ほどの小部屋で、入り口のすぐそばに、運送屋の名前が印刷された大きなダンボール箱が積まれていた。数えてみると、全部で七個ある。  箱の封を開けるときはずっとそばに立ち会っていた慶子も、しばらくすると階下へ降りて行った。芹沢は箱の中をすべて調べ、仕事の記録を綴ったノート類や大判のスケジュール帳、それに手帳といったものを選り分けた。まとめて借りていくことにしたからだ。パソコン用のフロッピーなども相当の枚数がある。慶子が出してくれたかなり大きめの紙袋に入れても、ぎっしり三杯分になった。  ずしりと重みのある紙袋を両手に提げて、芹沢がまた一階のリビングに戻ると、テーブルにはビールの用意がしてあった。慶子の手作りの料理も並んでいる。 「どうせ帰っても一人なんでしょう。何もないけど、食べていってよ」  慶子はこんなふうにビールの用意をするのは久しぶりなのだと、嬉しそうに言う。芹沢は礼を言って、慶子と向かいあってソファに座った。 「仕事のことは、私まったくわからないのよね。哲彦は家ではほとんど話をしなかったから。とくに最後の一年は、翔武の受験のために私達だけ東京に帰っていたでしょう。電話で話をする機会も少なかったから、彼が銀行でどんなことをしていたのかなんて、私はまるで知らないの」  慶子は芹沢のグラスにビールを注ぎながら、そのことを特に悔やんでいる様子でもなく、淡々と語る。 「康和の人間からは、何か訊かれなかった?」  慶子のグラスにもビールを注いでやりながら、芹沢はずっと気になっていたことを口にした。 「特にはなかったわね。哲彦が死んだと電話で聞かされた直後、警察の検死や現場検証などに、家族の代わりとして立ち会うけれど、それでいいかとは聞かれたわ。自殺なのは間違いないけれど、一応形式的に警察の検証が必要だったのよ。私はもう何がなんだかわからなくて、ただよろしくお願いしますと言うだけで精一杯だった。明石の両親がすぐにも飛んで行きたい様子だったけれど、父は心臓が弱っているのでそういうわけにもいかなかったの。翔武を預かってやるから、私だけでも行くように言われたのよ。だけど、私はどうしてもあの人の死んだ顔を見に行く気にはなれなかった。ましてや、高層ホテルから飛び降りたなんて聞いたら、すっかり動転して、足がすくんだわ」  芹沢には、そのときの慶子の様子が目に浮かぶような気がした。 「あとから康和の人に聞いた話では、そのとき参考品としていくつかの物が警察に押収されたらしいのね。でもそれが返ってきているのかどうかは確認していないわ。どうせ大したものはないでしょうし、もうそんなことどうでもいいと思えたから。銀行の預金とか現金などの関係は、哲彦の部下だった道田さんがきちんと面倒みてくださったのよ。ほら、お通夜のとき裕弥も会ったことあるでしょう。ニューヨークで哲彦の下にいた若い人」  彼らがいなければ立ち直れなかったと慶子は言う。慶子にそう思わせるほど、面倒見がよかったようだ。裏を返せば、その分明石の遺品を自分たちの都合のいいように扱えたということにもなる。そのことに対する口止め料という見方をするならば、死亡退職金や見舞金などを含めて、かなりの金額が支給されたことにも納得がいくが、もう慶子に何かを言うつもりはなかった。 「ねえ裕弥。もう忘れてよ」  慶子はあらたまった口調で切りだした。 「え?」  とっさに何のことかわからず、芹沢は聞き返す。 「哲彦が最後にあなたに助けてと言ったみたいだけれど、そんなことをもういつまでも悔やまないでほしいの。あの人は、いつも肝心なときになると、そうやって誰かに答えを求める人だったのよ」 「答え?」 「ええ、昔からいつもそう。あの人は、最後の答えは自分で出せないの。だからきっと、二十年ぶりに偶然ニューヨークで会ったあなたにも声をかけたのよ。もし本当に裕弥に助けてほしかったのなら、そんな一言ぐらいじゃなくて、ちゃんと説明すればいいじゃない」  慶子はゆっくりと言葉を選ぶように話を続けた。長い間言わずに心に留めていたことを、やっと口にできるまでになったという顔をしている。 「そうよ、哲彦はいつもそうだった。自分でも力がないわけじゃないのに、いざとなったらすごく不安になるのね。自分一人じゃ何もできないと思ってしまうのよ。だからついそばにいる人に助けを求める。その人の胸のなかにすぽっと入り込んで、うまく甘えられる。そういうことがとても上手な人だったわ」  慶子は顔だけを遺影のほうに向けた。 「そんなことはないさ。それが証拠に、あいつはすごくいい仕事をしていたそうじゃないか。康和のニューヨーク支店では、花形ディーラーとして注目を集めていたと聞いたよ」  芹沢はせめて明石をかばってやりたかった。 「それがいけなかったんじゃないかしら。少なくとも、あの人は相場みたいな度胸の要る仕事には向いていなかったのよ。誰にも頼らないで、たった一人で決断するような、そういうことのできる人じゃないもの。それは私が一番よく知っているわ。だから、どこかに絶対無理があって、それが積もり積もって、耐えられなくなって、だから最後は──」  慶子の声がとぎれた。だが、じっと見つめている芹沢と目が合った途端、すぐに思い直したように笑みを浮かべた。そして、気持ちを吹っ切ろうとでもするように、グラスに残ったビールを一気にあおった。 「無理をするなよ、慶子──」  芹沢が言ってやれるのは、そんな言葉だけしかなかった。 「私ね、裕弥にずっと内緒にしていたことがあるの」  ビールのせいか、少し赤らんだ慶子の顔が、思い詰めたように芹沢を見た。 「高校二年の秋のことよ。哲彦の家に呼ばれて行ったことがあったの。裕弥も一緒だっていうから行ってみたのよ。だけど実際は、誰もいなかったわ。家の人達もみんな留守で、家には私と哲彦の二人っきりだった」  慶子はいったん言葉を切った。言おうかどうかまだ迷いがあるのかもしれない。 「最初はね、二人でレコードを聞いたりしていたの。ちょっとぎこちなかったけれど、いつもと変わらない雰囲気だった。ところが急に哲彦が泣きだしたの」 「泣いた?」 「そうよ。私もびっくりしたわ」  慶子は心を決めたように語り始めた。芹沢と一緒に同じ大学に行こうと約束したのだけれど、明石は、自分には絶対に合格できるはずがないと悩んでいたというのだ。 「まさか──」  芹沢は言葉に詰まった。 「でも、あのころの哲彦の成績なら、無理だったような気もする。たぶんあの人の言うとおり、裕弥だけが受かって哲彦は落ちていたわ。あの人本当に泣きだしたの。私は思わず哲彦の頭を抱いていた。自分の胸のなかにしっかりと哲彦を抱きしめながら、大丈夫よ、大丈夫よって、何度も言っていたわ。私がなんとかしてあげるってね」  ばかみたいでしょうと、慶子は小さく笑った。 「なんだか二人ともすごく興奮していて、そのときよ。そのまま、哲彦の部屋で私達は──。つまりその、結ばれたの」  慶子はそう言って、芹沢から顔をそむけるように立ち上がった。ゆっくりと哲彦の遺影の方に歩き、前に置かれた座布団に座って、写真のなかの哲彦に向かって話を続ける。 「私はまるで母親にでもなったような気持ちだったわ。すごく変なのだけれど、自分にすがってくる哲彦がいとおしいと思った。だから、驚きはしたけれど、私は彼を自然に受け入れていた。いまから思えば、それはひどく子供っぽい行為だったのよ。抱きあったというより、そんなことの真似事をしたという程度のこと。だけどそれは、哲彦にとっても、もちろん私にだって、生まれて初めてのことだったわ」  慶子は新しい線香を取り出し、火をつけた。 「でもね、それ以来私は、哲彦をなんとしても大学に合格させなくちゃと思ったの。こんなことになってしまったから、哲彦との将来を考えなきゃって思ったのね。まだ高校二年生だというのによ。だけど私はそのことで頭が一杯だった」  そのころから、慶子は明石と一緒に受験勉強をすることになったのだという。お互いの家を訪ねあい、二人で勉強することが多くなった。わからないことがあると、明石はその場で慶子に尋ねた。慶子も明石に正しい答えを教えるために、必死で勉強をしなければならなかった。そしてはずみがついたように成績が上がりだしたのだ。 「知らなかったよ。全然気がつかなかった」  芹沢は動揺を隠すのに苦労した。自分の知らないところで、明石と慶子にそんないきさつがあったなどとは、考えることもできなかった。 「そりゃそうよ。裕弥にだけは知られたくなかったから、私、一生懸命隠していたもの」  それ以来、芹沢を取り巻くすべてが変わったのだ。芹沢はふと州波のことを思った。明石のそんな弱さや、それでいて、その弱みを武器に変えてしまうしたたかさに、州波も惹かれたのだろうか。 「ねえ、裕弥。あの人女がいたんでしょう?」 「え?」  一瞬自分の心の中を覗かれた気がして、芹沢は目をそらせた。 「いいのよ、隠さなくても。私もなんとなく気づいていたから」  慶子はかまわず先を続ける。 「この前テレビに出ていた人、ほら大蔵省のなんとかっていう人とのスキャンダルで、噂になっていた人よ。私あの女の人が哲彦と一緒にいるところを見かけたことがあるの。もうずっと前のことだけど。ねえ、あの人ニューヨークで哲彦とも何かあったんじゃない?」  これが妻の勘というものだろうか。だがなぜかこのとき、州波のことを打ち明けてはいけないと強く感じた。 「彼女は証券会社の人だから、仕事で哲彦と一緒だったとしても別に不思議はないだろう」 「いいえ、そんな雰囲気じゃなかったわ。私もまだニューヨークにいたころね、たまたまちらっと見ただけなのよ。そのときは、ただなんとなく哲彦が惹かれそうなタイプの女性だなあと思っただけだったわ」 「慶子の思い過ごしだよ」  そう言ってから、もっとほかに気の利いたことが言えないのかと、芹沢は自分でも、もどかしかった。 「いいえ、間違いないわ。哲彦にはついに一度も確かめることができなかったけれど。いま思えば、ちょうど私が偶然二人を見かけた頃からだったような気がする。哲彦は確かに変わったのよ。考え方がまるで違ってきた。最初私は、仕事が変わったせいだと思っていたの。だけど、違ったのね。誰かがあの人を変えたのよ」  芹沢は思わず慶子の顔を見た。 「それが妻にとってどういうことなのか、裕弥にわかる?」  慶子はキッと芹沢に向き直った。芹沢は返す言葉がなかった。 「それまでの哲彦は、何かあると必ず私に相談してくれたの。なのに、何も言ってくれなくなった。きっと、別に相談する人ができたからよ。家ではすっかり無口になって、私が何か言っても、どこか話がかみあわない感じだったわ。私達、いつもお互いにちぐはぐな気遣いばかりして、そういうのにどんどん疲れていった。あの人が忙しくてあまり家にいないときは、かえってほっとしたものよ。哲彦はたぶん私と別れたいと思っていたはずよ」 「そんなことはないよ」  芹沢は即座に否定した。慶子は少し驚いたような顔をして芹沢を見つめた。 「ううん、それは本当よ。私達何度もだめになりそうになった。哲彦は朝早く出ていって毎日帰りは夜中。仕事仕事で追われて、週末もほとんど家にいなかった。私は毎日家のなかにいて、後悔ばかりしていた。哲彦の人生に自分の人生を重ねるようにして、他人任せで生きてきたことが、そのときになって悔やまれたのね。たまたま結婚前に仕事で一緒だった人がニューヨークに来ていて、相談にのってくれてね。仕事を紹介してもらえることになったの」 「哲彦と別れて自活したいと思ったのか?」  芹沢が尋ねると、慶子は口許に自虐的な笑いを浮かべた。 「そうよ、やっと決心したのよ。ところが、今日こそ哲彦に切り出そうと心に決めた矢先、自分が妊娠していることがわかったの。皮肉な話でしょう。なんだかずっと熱っぽかったから、たまたま病院へ行ったのね。そしたらそう言われて、私最初はまるで信じられなかった。嘘だって思った。哲彦が無意識のうちに、私をこんな形で縛ろうとしているのだと思ったくらい」  芹沢は州波の話を思い出した。ちょうどこのとき、哲彦は妻の妊娠を理由に、州波との別れを切り出している。慶子はもちろんそんなことはまったく知らないようだが、慶子に明石との離婚を踏みとどまらせた新しい生命の芽生えは、別の形で州波の人生をも変えたのである。子供を望んでもかなわない女が、相手の妻の妊娠のために男をあきらめ、一方の妻は、望んでいたわけでもない子供のために、仕事も自立もあきらめる。まるで皮肉なシーソー・ゲームだ。 「ちょうどそのころ、明石は急に本店に呼び戻されて、すぐに日本に帰国することになったの。結局何も言い出せないまま、私の離婚熱はすっかり冷めた。翔武ができて、私の生活はまたすっかり変わったわ。子育てに夢中だった。けれど哲彦の私と別れたいという気持ちは、最初から何も変わっていなかったはずよ」 「それは慶子の思い過ごしだろう。あいつは慶子と別れようなんて考えてなかったと思うよ」 「いいえ、あの人が私から離れたかったのは間違いないわ。ただ、私からは自由にはなれないことも知っていた。だって、あの人は私に恩義があるもの。私はそんなこと決して思ってはいないけれど、あの人自身はずっとそう思っていたはずだから。高校時代、私がいなければ大学には入れなかった。大学に入れなかったら康和銀行にも入れなかったし、いまの自分もなかったって。そして哲彦には、そのことがもううんざりだったのよ。私は哲彦が望んだことにちょっと手を貸しただけのつもりだった。だけど、今度はそのことであの人を追い詰めてしまったのね」  慶子は何もかも見抜いているのだ。男の辛さもそして|脆《もろ》さも。そう思うと芹沢はたまらない気がした。 「哲彦は私といるのがいつも息苦しかったのよ」 「そんなふうに自分を責めるなよ、慶子」  芹沢はそう言うだけで精一杯だった。 「大事なときに自分で答えを出すことなんて、ずっと苦手だった哲彦が、最後に自分でやっと答えが出せたのね。そして、その答えが死を選ぶことだった」  慶子はまるで他人事を話すように言った。 「そんな言い方するなよ、慶子」 「私、こんなこと一生誰にも言うつもりはなかったけれど……」  苦しそうにいったん言葉を切り、慶子はまっすぐに芹沢を見た。 「私ね、本当は哲彦が死んで、ほっとしたの」  下唇が小刻みに震えている。 「もうやめろ!」  芹沢は慶子のそばまで行って、その肩をつかんだ。 「あの人が何を思って死を選んだのか、はっきりとはわからないけれど、それとも、もしかしたらもう何も考えたくないと思ったから死んじゃったのかも知れないけど、でも私、あの人が私と別れて、ほかの女の人のところに行ったのじゃなかったから、それだけでもよかったと思ったわ。一人で逃げ出してくれた。やっとこれで哲彦は楽になれた。これであの人は私からついに解放されたのだって、本当にそう思った……」 「もういいよ慶子。いいから、もう言うな」  芹沢は慶子の肩に置いた手に力を込め、引き寄せた。うなじにかかる後れ毛がかすかに震えている。芹沢はその背中をゆっくりと撫でた。 (なあ哲彦、おまえは死んで、まわりのみんなをこうやって少しずつ責めているのか)  静かに泣き続けている慶子の肩を横抱きにしながら、芹沢は目の前の明石の写真を見つめていた。 (なあ、俺達はここからどっちへ行けばいいんだよ)  写真の中の明石は、いまにも何か語り始めそうな顔で、微笑みを浮かべてこちらを見ていた。     5  州波が宮島のマンションから帰ってくると、芹沢はすでに帰宅していた。 「会社のほうは大丈夫だったか?」  リビングで顔を合わせるなり、芹沢が心配顔で訊いた。 「今日辞めてきたわ」 「え、辞めた? まさか、モーリスを辞めたということなのか?」 「そうよ」  州波があまりに平然と言ったので、芹沢はあっけにとられたような顔をした。詳しい事情を説明するつもりは、州波にはなかった。帰りにパークハイアットに立ち寄って、あの部屋を引き払ってきたことについても、荷物はすべて業者の手で、広尾の州波のマンションに運びこんでもらうように頼んできたことも、知らせる必要はない。  ホテルの部屋を仕事場として借りていたのは、節税の目的もあったのだが、今後はその必要もなくなったわけだ。マスコミ勢が、いずれマンションの玄関で待ち伏せするのをやめるようになったら、すぐにも芹沢のマンションを出て、自分の部屋に戻るつもりでいた。 「どんないきさつがあったか知らないが、モーリスもひどいよな、即クビというのは、いくらなんでも不当解雇じゃないのか?」 「私が辞めたのよ」 「そうか──」  芹沢は言葉を途切らせて、州波の目を見た。州波が何も語らなくても、たぶん察しがついたのだろう。モーリス証券から理不尽な仕打ちを受けたことも、それを州波の口からは言いたくないことも、芹沢にはみんなわかっているのかもしれない。なんとか慰めの言葉がないかと、必死で探しているのだろう。困り果てた様子で、自分をじっと見つめる芹沢の顔を見ているうちに、州波はこれまで自分にとり憑いていた憤りが、急に冷めていくのを感じた。会社から出るとき、あれほど腹を立てていたことが滑稽な気さえしてくる。 「もういいのよ」  その言葉が、不思議なほど無理なく出てきた。 「そうかな。こんなことぐらいですごすごと引き下がるなんて、なんだか君らしくないような気がするけれど」 「私はなにも引き下がったわけじゃないわ。そんなことより、もう一度大蔵省の宮島さんを動かせれば、なんとかなるかもしれないと思っていたけど、だめだった」  気がかりなのはそのほうなのだ。州波は話題を変えるため、宮島に会いに行ったことを簡単に告げた。 「俺のほうは、今日明石の家に行って、ニューヨークから送ってきたあいつの荷物というのを見せてもらった。その中から、仕事関係の資料や手帳類と、明石が残したメモなどを、見つけた限り全部借りてきたよ」  芹沢はそう言って三個の紙袋を運んできて、どさっと床に置いた。袋のなかには数々のバインダーやファイル、それに大判のスケジュール帳やアポイントメントの記録といったものが几帳面に並べて入っている。 「たぶん、ほとんどのものについては、康和銀行の人間によってすでに調べられているだろうから、この中から何かを見つけるのは無理かもしれない。明石もおそらくそのことは考えていただろうから、きっと大事なものはこの中には入れておかなかったと思うんだ。だけど一応目を通すに越したことはないだろう」  州波はバインダーのひとつを手に取った。 「これがあれば助かるわ。この先は、なんとしても関わっていた人物の名前を探し出さないと身動きがとれないもの。もうあまり時間をかけてはいられない。こうなったら、私は徹底的に関係者のリスト探しに集中するから、取引記録のデータ解析と、損失隠しの証拠固めは、あなたにやってもらえるかしら?」 「大丈夫、俺に任せてくれ。こういうのは得意だから」  すぐにそう言って、芹沢はいつになくおどけたそぶりで仕事部屋に紙袋を運び、自分はパソコンの前に座った。今夜の芹沢には、細やかな気遣いが感じられる。面と向かってはもう何も触れないが、州波が会社を辞めたことを心配している様子が、痛いほどに伝わってくるのだ。  州波はあえてそのことに礼を言うこともせず、黙って作業に取りかかることにした。明石が残した書類に目を通し、考えられる限りのファイルをもう一度洗い直した。資料を深く読み返し、明石が潜ませたはずの関係者リストを発見することに没頭するつもりだった。  芹沢のほうは、明石が残した三枚のディスクに保存された膨大な資料を、丹念に調べている。二人の間に無言の作業が始まった。州波が資料のページを繰る音と、芹沢がキーボードを叩く音だけがときおり聞こえる。静寂ではあったが、決して気づまりなわけではない。むしろ、どこか心温かく、互いにひとつの目的に向かっているという強い連帯感に満たされていた。  どれほど時間がたっただろう。ファイルや手紙、社内メモといったものの類いにはとくに注意を払ったが、どれだけ詳細に調べても、担当者名を明記したリストらしいものは見当たらなかった。 「どうしてかしら。絶対にどこかに隠されていると思うんだけれど」  それは州波にとっては確信に近いものだった。必ずあるに違いない。そしていまも、どこかでひっそりと見つけられるのを待っているはずだ。そう思うといてもたってもいられないほど、もどかしくなる。何かを見落としているのだろうか。明石が密かに隠した場所である。しかも、州波が必ず見つけるはずだと、明石があらかじめ予測して隠したところが、どこかに必ず存在するはずなのだ。  気持ちを落ち着け、何度も振り出しに戻って探し直した。だが、いくら探してもどうしてもリストは見つからない。 「なあ、もしかしたら明石は隠すことができなかったのじゃないかな。これだけ探しても見つからないんだもの、取引データは保存して君に託したけれど、そこまでで力尽きたのかもしれない」  芹沢の考えに州波は首を横に振った。 「それはないと思うわ。明石さんは決して喜んで死んでいったわけではないでしょう。きっと死ぬのが無念だったはずよ。そんな中でやむをえず生命を絶とうという人間が、生き残ったものに何かを託すとしたら、そんな中途半端なところでやめたりしないわ。もっと必死で、なんとかして残った者に伝えようとするのじゃないかしら」 「それもそうだな。これだけのものを残しているところを見ると、突発的に死を選んだとは思えないものな。用意周到に準備をした覚悟の死だったような気がしてくる。それならなおのこと、安全に、なおかつ確実に伝達できる方法を考えたはずだ。途中で殺されでもして、思ったとおりに実行できなかったのならまだしも──」  と、何気なく言いかけてから、芹沢はハッとして州波を見た。州波も同じように芹沢を見ていた。その顔が何か恐ろしいものでも見たように引き攣っている。 「そうか、つまりそういうことなのか。あいつは、自分で飛び降りたのじゃなくて、何者かに突き落とされた──」 「ありえないことじゃないかも──」  州波の声も途中で途切れた。 「それだったら、話は通じるな。だから、いくら探してもリストはないのか」  突然州波は手に持っていた明石のスケジュール帳を、芹沢に差し出した。 「ねえ、ちょっと見て、ほらここよ、このページが破り取られているでしょう」  B5判サイズの黒いスケジュール帳は、左のページが一週間分の日付になっていて、右のページは書き込み欄になっているものだ。その三週間分が、いかにも慌てていたように乱暴に破り取られている。 「三年前の三月のページだな、何か意味があるのだろうか」 「日付順になっているスケジュール帳を、ここだけ破り取るなんて変よ。何かあったとしか考えられない」  一通り目を通した芹沢から、スケジュール帳を受け取りながら、州波は言った。 「破り取ったのは、きっと明石さん以外の誰か別の人間だわ。だって明石さんはすごく几帳面な人だったのよ。ちょっと神経質なぐらいですもの、もし仮に何か必要があったとしても、彼ならカッターを使って、もっときれいに切り取るはずよ。こんな乱暴にむしり取るみたいなことは絶対にしないわ」  州波は、無惨に破られ、わずかに残った紙片に、何か文字でも書かれていないかを調べてみた。 「誰かが、証拠隠しのためにここの三枚を破って持ち去ったと言うのなら、おそらくそれは康和銀行のニューヨーク支店の人間だと思うよ。明石が死んだ直後、家族が誰もすぐには渡米できないというので、ホテルから遺品を引き取るのも、警察に引き渡すのも全部銀行側の人間が代行したという話だったから」  芹沢はニューヨークで聞いたことを州波に伝えた。 「つまりは、このページに、急いで隠さなければならない何かが書いてあったということね。もっとほかも探してみましょうよ。まだなくなっている箇所があるかも知れないわ」  そう言いながら、すでに州波はほかの手帳に手を伸ばしていた。芹沢も手当たり次第にノート類を調べはじめる。 「あ、ここにも巧妙にはぎ取られたページがあったよ」  芹沢は見つけ出したノートを州波に指し示した。 「このページは、ニューヨーク支店における邦人顧客リストの一部みたいね」  ナンバーが欠落したページの前後を見ながら、州波が言った。 「これもだ。支店内で開かれた会議記録みたいだな」  芹沢はさらにもう一冊のノートを見つけ出した。 「間違いないな。やはり誰かが何かの目的を持って記録を抹消したんだ。なくなっている箇所を、日付の順を追って繋ぎあわせることはできないかな。そうすれば何がなくなっているのか関連性が体系づけられて、何かわかるかもしれない」  芹沢が言う。だが、州波は首をかしげた。 「日付だけで並べてもだめでしょう。明石さんのノート類だって、ここにあるだけで全部とは言えないし、これだけでなくなっているものを特定するのは無理だと思うわ」 「だけど、できるかぎりやってみよう」 「そうね。どちらにしても、これで明石さんの自殺説に疑問が出てきたことだけは間違いがないわ」  州波の言葉に、芹沢もうなずいた。確かに州波の言うとおりである。そしてもし明石の死が自殺ではなかったとするならば、明石を殺害した犯人は、おそらく康和銀行の損失隠蔽と無関係ではないだろう。 「これは、とんでもないことになってきたな」  芹沢が思わず声をもらした。 「明石は、俺が前の日に会ったときは、上機嫌だったんだ。どうみても自殺を考えているような人間とは思えなかった。ところが、その日の夜中に、俺のホテルの部屋に宛てて、ファックスを送ってきた。あれはやっぱり本当に俺に助けを求めていたんだ」  どうしてそれに気づいてやれなかったんだろう。いまさらながら悔やまれる。きっと明石は、あのときすでに身の危険を察知していたのに違いない。自分に迫ってくるものに恐怖を感じ、そこから逃げ出したくて芹沢に助けを求めてきたのだ。芹沢は、明石がファックスを送ってきた意味が、いまやっとわかったような気がした。 「俺は、これを受け取ったとき、昔明石とやったメモのやりとりを忘れていたのさ。まだ中学や高校のころ、あいつは授業中にしょっちゅう俺にメモを送ってきたんだ。小さな紙切れには、決まって『 N. U. H.』とだけしか書いてないんだけど、二人の間で決めたニード・ユア・ヘルプの略語だった。だけどあのときの俺には、そんなことがあったことさえ思い出すことができなかった。畜生! あいつがそんなに深刻に助けを求めていたなんて、あのとき俺が、その意味さえ思い出していたら……」  芹沢は歯噛みする思いと戦っていた。 「ちょっと待って、いま何て言ったの?」  州波が突然険しい顔で芹沢に迫った。 「だから、あのときの俺には、明石の気持ちがわかってやれなかったって……」 「違う。そのことじゃなくて、その前に言ったことよ」 「あいつが俺と会った日の夜中に、ファックスを送ってきたってことか?」  そのことは何度も言ったはずだ。何をいまさら驚いているのだと芹沢は思った。 「そのファックスには、『 N. U. H.』と書いてあったというの?」  州波は責めるような目つきで芹沢を見た。 「ああ、たった三文字、『 N. U. H.』と書いてあっただけだ」 「明石さんから助けてほしいというファックスが届いたとは聞いていたけれど、『 N. U. H.』と書いてあったなんて、あなた一度もそんなこと言わなかったじゃない」  それがいまさらどうかしたのか、と芹沢は聞きたかった。 「そうだ、ここに持っているよ。明石の奥さんにもう一度見せようと思って、今日持って行ったんだ。結局見せなかったけれどね。ちょっと待ってくれ」  芹沢はそう言って、ブリーフ・ケースの中から封筒を取り出し、あのファックスを州波の前に開いて見せた。  七カ月以上もたって、古びてしまったファックスの感熱紙は、時間の経過とともに変色を始めていた。明石が書いた文字も、やや赤みを帯びて薄くなっている。だが、あの朝、芹沢が冷たいニューヨークの空気のなかで受け取った、あのままの文字だ。神経質そうな文字が、ただ三文字『 N. U. H.』とだけ、用紙の片隅で必死で訴えているようだった。  いま、またあらためてこの文字を見ると、芹沢のなかで、時間が逆戻りしていくのを感じた。あの朝、街中があえぐように白い息を吐く晩秋のマンハッタンで、このファックスを受け取ったときのことが浮かんできた。そしてその三日後、飛行機のなかで明石の死を知ったときのことも、生々しく芹沢の胸に甦ってくる。 (明石、俺はおまえを助けてやれなかった。おまえは必死で助けを求めたのに、俺はそんなおまえを見殺しにしたんだ)  芹沢は耐えがたい思いに囚われて、ファックスから目をそらした。乱暴に目の前に差し出されたファックスに、州波は吸い寄せられるように目を向けた。たった三文字のメモのはずなのに、州波はまるで長い手紙かなにかを読んでいるように、じっと文字を見つめたまま動かない。  州波が出張のためニューヨークを離れていたときに、明石がこの世に残した最後の言葉なのだ。そのたった三文字にこめられた明石の思いを、州波はいま全身で感じ取ろうとしている。  声をかけようとして、芹沢は息をのんだ。州波の身体からほとばしり出た哀しみが、細かい霧になって立ち昇っているような気がしたからだ。息苦しいほどの静けさの中で、州波はいま何かと向きあっている。その姿を見つめたまま、芹沢は一言も発することができないでいた。  突然電話が鳴って、芹沢はわれに返った。  こっそりと部屋を抜け出すようにして、隣りのリビングに戻り、受話器を取る。 「芹沢裕弥さんのお宅でしょうか?」  受話器を取った途端、男の声が聞こえてきた。どこかで聞いたことのある声だ。芹沢が返事をする前に、相手は人なつこい声で続けた。 「ケンですが」 「はあ」  とっさには誰だか思い出せない。 「佐々木です、ニューヨークの。その節はお電話で失礼しました」  そう聞いても、電話の相手が、ニューヨーク市警捜査官のケネス佐々木だと思い出すまでに、まだしばらく時間がかかった。 「ニューヨークの? ああ、あのときの。いや、失礼しました。こちらこそ、その節はお世話になりました」 「いえ、僕は何もできませんでしたよ」  芹沢には、電話の向こうで佐々木が微笑んでいるのが見えるような気がした。そして今日まで、この男の存在をすっかり忘れていたことにも気がついた。明石の自殺に疑問を抱き始めたいま、佐々木から思いがけなく電話がかかってきたのも、あながち偶然ではないのかもしれない。何かが、大きな力を与えてくれている。芹沢はそう感じないではいられなかった。 「佐々木さん、ちょうどよかった。実は明石のことで、あなたにぜひ聞いていただきたいことがあるのですが」 「こちらもぜひ芹沢さんにお訊きしたいことがありましてね。それでお電話をしたのですよ」  せっかちな芹沢の申し出に、佐々木が苦笑しているのが感じられた。 「あ、失礼しました。ついあわててしまって。何ですか、僕にお訊きになりたいというのは?」  電話で一度話しただけで、顔さえ見たこともない相手なのに、この男にこうも親しみを感じてしまうのはなぜだろう。佐々木には、生まれつき人の心をうまくつかんでしまうような力があるのだろうか。あるいはそれを、事件の捜査という日々の訓練で、自然に習得しているのかもしれない。 「実は僕、いま休暇で東京に来ているんです。一昨日こちらに着きましてね。息子が夏休みの間、千葉にある僕の叔父の家で過ごすことになったものですから、息子を送りがてら日本に帰って来たというわけで──」  六月初旬から八月末まで、アメリカの小学校は学年末の夏休みに入る。それで一緒にやって来たのだが、芹沢と前回電話で話したときも休暇中だったので、休んでばかりいると思われそうだと、佐々木は笑いながら弁解した。いつもは休みなどほとんど取れないほど忙しいのだろう。 「せっかく日本に来たのですから、こちらで康和銀行の方にも、何人かお目にかかりたいと思っているんです」 「捜査ですか? やはり明石の自殺に何か疑問でも?」  そう言ってから、芹沢はまた自分のせっかちさを恥じた。 「いえ、そういうわけではないんですが、この前も言いましたように、少しでも気になることがあると、そのままにして置けない性格なものですから──」  佐々木は控えめな言い方をした。だが、明石が在籍中に康和銀行のニューヨーク支店で支店長をしていた本多という男にも、どうやら会ってきたらしい口ぶりだった。 「それとね。芹沢さんは明石さんとは親しいご友人だったと聞いていましたので、もしかして彼に、奥さん以外に誰か別の女性がいたようなことを聞いておられないかなと思いましてね。できればぜひ会ってみたいと思っていますので、もしご存知なら、教えていただきたいのですが」  以前にも言っていた通り、佐々木自身はまだ明石の死を、自殺だとは完全に納得していないようだ。 「どうしてそのことを?」  思わずそう訊いてから、芹沢は隣りの部屋にいる州波のことが気になった。 「やはりご存知でしたか。実は、ホテルの人間から聞いたんです。明石さんの部屋に女性が来ていたというんですよ。最初その話を聞いたとき、夫人とは別人なのではと直感したものですから、一応念のため、今朝、明石夫人にもそれとなく電話で打診してみたんです」 「え、慶子さんに彼女の話をしたんですか?」 「いえいえ、もちろんいまはまだそんな訊き方はしていません。ただ、案の定夫人があのホテルに行ったのは、明石さんが亡くなられたあと、しばらくしてからのことで、それ一回だけだというんですよ。要するに、明石さんには、夫人以外にほかに女性がいた可能性が出てきたというわけです。それで、芹沢さんなら、その人物に心当たりがあるのではと思ったんですよ」  芹沢は返事に窮した。その女が州波で、しかもいまここにいると告げるべきなのだろうか。 「あの、電話ではなんですから、できれば一度お会いして、直接お話しできればと思うのですが、いかがでしょうか?」  口ごもっている芹沢に、佐々木のほうが切り出した。 「そうですね。ぜひお願いします。直接お目にかかってお話しできれば、こちらのほうこそありがたいですよ。佐々木さんさえよろしければ、早いほうが──」 「実は、今回は個人的な休暇で来ておりますので、僕もあまりゆっくりはしていられません。ですから、突然ですが、今夜どこかでお会いするというのはどうでしょうか?」 「いいですよ。そうだ、すみません。ちょっとこのまましばらくお待ちいただけますか?」  芹沢は受話器を置いて州波のところまで急いだ。佐々木のことを簡単に説明し、今夜ここに合流してもらってはどうかというためである。州波にはニューヨークでのいきさつや、いまの電話の内容をかいつまんで伝え、ニューヨーク市警察のなかで、ただ一人明石の自殺説に、わずかではあるが疑問を抱いている人間なのだという言い方をした。 「ちょうどよかったんじゃないかな。佐々木さんに会って、なんとかもう一度捜査のやり直しをしてもらえるように頼んでみようよ。この破られた資料も見せて説明すれば、協力を得られるかもしれないし、何かの参考にしてもらえるかもしれないよ。もし明石のことが自殺じゃないとしたら、俺達だけの力じゃ不安だし、この際きちんと調べてもらうべきだろう。ここに来てくれるように頼むよ。いいね?」  芹沢の言葉に、州波は俯いてはいたが、とくに異論はないようだった。というより、なにか別のことに気をとられている様子にも見える。芹沢は、やはり佐々木の協力を得るべきだと心を決めた。すぐに電話のところに引き返し、佐々木にこの部屋までの道順を教えて、また戻ってきた。 「いま東京駅だと言っていたから、三、四十分で着くだろう。君のことを話したら、佐々木さんも驚いていたけど、もしかしたら何か以前とは違った展開になるのかもしれない。彼の話を聞いてみないとわからないけどね。おい、どうした、大丈夫か?」  州波の様子がおかしい。芹沢の言葉など一切耳に入っていないような顔で、まだじっとファックスを見つめたままなのだ。 「どうかしたのか?」  あらためて訊いたその声に、州波はふと顔をあげて芹沢の方を向いた。だが、こちらを見てはいるのに、目はまるで宙のあらぬ一点を見ているようなのだ。芹沢がさらに訊こうとしたとき、州波は静かに口を開いた。 「もしかしたら──」  心は完全に別の何かに支配されている。芹沢には州波に何が起きているのかまったくわからなかった。すると次の瞬間、突然電流が通ったように、州波の顔に生気が戻った。 「ねえ、もしかしたらそうかもしれないわ」  州波はそれだけ言うと、急に機敏になった。いきなり立ち上がったかと思うと、何を思いついたのか寝室に行き、またすぐ部屋に戻ってきた。手には自分のマンションから持ってきたラップトップ・パソコンと、MOドライブを抱えている。明石もよく使っていたパソコンだ。 「この中かもしれないのよ」  よほど慌てたのか、息が荒い。ほとんど興奮状態だった。 「何のことだ? いったいどうしたっていうんだ?」 「だから、明石さんの極秘ファイルの隠し場所よ」  州波はもどかしそうに言った。 「何だって?」 「わからないけれど、もしかしたら、たぶんここのことかもしれないと思うの」  そう言いながら、州波はデスクの空いたところにラップトップを置き、急いでMOドライブを繋いだ。芹沢がその前に折り畳み椅子を出して置いてやると、短く礼を言って座り、ラップトップの蓋をあけるとすぐにメイン・スイッチを入れた。画面が立ち上がってくるのにしばらく時間がかかった。それは、ほんの数回ばかり呼吸をするぐらいのわずかな時間だったはずだが、芹沢にはじれったいほどの長さに思えた。 「どういうことなんだ。このなかにあるというのは?」  二人の視線がラップトップの液晶画面に集中した。州波は無言のまま、操作を始めた。キーボードの上を、凄まじいまでのスピードで州波の指が躍る。その気忙しい音だけが、静まりかえった部屋に響いた。  やがて画面にはひとつのフォルダが現れた。「 N. U. H.ファイル」というタイトルが、英語で書かれている。 「 N. U. H.ファイル?」  芹沢は州波が開いたフォルダの名前を声に出して読んだ。 「そう、わかったでしょう? 実はね、明石さんは私とも同じようなことをしていたの」  州波はふと画面から視線をはずした。遠くの一点に、まるで何かの映像が映し出されてでもいるように、まなざしを向けている。だが、次の瞬間、またもとに戻って画面を見つめた。 「相場のことでつまずいたり、何かわからないことがあったとき、あるいはトレーダーの間でいろんな噂が出て、その|信憑《しんぴよう》性や出所を知りたいようなとき、彼は必ず電子メールで私に質問をして来たの。私は毎日、会社で何件もの電子メールを受信するでしょう。そんな中でもすぐにわかるように、明石さんは急いで返事を欲しいときだけ、そのメッセージのタイトルに『 N. U. H.』と書いて送ってきたのよ」  電子メールを送るときには、メッセージに表題をつけ、サブジェクトの欄に書き込むのだが、明石はほかの伝言と区別するために、そんな特別の約束をしていたというのだ。 「仕事中でも、彼から届いたメールに『 N. U. H.』というタイトルがついているときは、即座に開いて読んだものだわ。そして急いで返事を書いて送ったの。市場のことや、決済事務のことや、明石さんはいろんなことを訊ねてきたわ」  ときには、これから市場で買いを入れようと思うけれど、どう思うかという質問まであったという。そうやって州波は、あらゆる局面で明石を助けてやってきたのだろう。芹沢は州波の明石への思いを、あらためて見せつけられるような気がした。 「そういう『 N. U. H.』の表題がついた、あいつからのメッセージばかりをまとめて保存しておいたのが、このフォルダというわけなんだね。そして、そのフォルダの中に明石は──」  州波は芹沢の問いかけにうなずいた。 「そうよ。もしかしたら彼が持っている秘密の情報を、私のこのフォルダに隠したのよ。そしてそのことを教えるために、芹沢さんにこんなファックスを送ったのじゃないのかしら。ちょっと待ってて、調べてみるから」  州波は、そう言いながらも手の動きを止めず、フォルダの中に並んだメールのリストを調べ始める。  明石が芹沢に送った『 N. U. H.』の言葉には、州波にこのフォルダのことを伝えてほしいという意図があったというのだろうか。少なくとも州波は、あのファックスからそのことを読み取った。芹沢には伝わることのなかった明石の最後のメッセージは、州波にはしっかりと伝わったのだ。そしてもし、州波の言うとおりだったとすれば、明らかに明石は、いずれ芹沢が州波となんらかの接点を持つことを予測していたということになる。芹沢の頭のなかを、いくつもの感慨がかけめぐった。  州波が、黙ってフォルダの中を点検し始めたとき、玄関のチャイムが鳴った。 「佐々木さんだ。思ったより早かったな」  そう言って立ち上がりながら、州波には、声をかけるまで仕事部屋で待つように告げ、芹沢は玄関に迎えに出た。  ドアを開けると、五十歳近いだろうか、薄茶のチノパンツにワーク・ブーツを履き、白いシャツに茶色の革ジャンパーを着た男が立っていた。 「芹沢さんですね、ケンです」  佐々木は人なつこい笑みを浮かべて、すぐに握手の手を差し出した。芹沢が想像していたよりずっと小柄な男だ。ただ上半身はがっしりとして、腹も少し出ている。歯切れのよい電話の声と、小学生の息子がいるという話から、もっと若い男だと思い込んでいたが、短く刈った髪にかなり白いものが混じっているのを見ると、あるいは五十歳を超えているのかもしれない。 「ここ、すぐにおわかりになりましたか?」  芹沢が部屋に招き入れながら訊いた。 「はい。仕事がら、初めての場所に行くのは慣れていますので」  相変わらずの丁寧な口調でそう言いながら、佐々木は玄関で靴を脱ぐのに手間取った。どうも靴を脱ぐ習慣に慣れなくてと、照れて何度も頭を掻く。左手の小指の先だけで、短い髪を掻くその仕草は、どうやら佐々木の癖らしい。それにしても、こちらまでがつられてつい笑ってしまうような柔和な笑顔である。そんな佐々木を見ていて、芹沢はなぜ顔も合わせないうちからこの男に親しみを感じたかがわかったような気がした。  リビングに案内し、これまでのいきさつや、明石の自殺説に疑問があるのではないかと思える理由について説明したとき、佐々木はさすがに飲み込みが早かった。話の腰を折らぬように、適切な相づちを打ちながら、巧みに質問をしてくる。その表情はすっかり変化し、人の心の裏側まで見抜こうとするような、鋭い刑事の目付きになっているのを、芹沢はあらためて意識した。 「実は、ご紹介したい人がいるんです」  仕事部屋で待っていた州波を呼び、電話で話していた女性だといって会わせると、佐々木はやはり驚いた様子を見せた。 「なあ、やっぱり俺達が思った通り、明石は誰かに殺された可能性が出てきたみたいだよ」  佐々木と交わした話について伝えたが、州波は返事もせずに立っている。 「あのう、さっきご説明した一部始終は、実は、すべてこの有吉さんの努力でわかったことなんです」  芹沢は、気詰まりな空気を和らげようと、州波と佐々木を交互に見て言った。 「捜査上の秘密なので、詳しく申し上げることはできませんが、私がこちらに着いた夜、ニューヨークの部下から電話がありましてね。向こうを発つ前に、指示を出してきたんですが、やはり当時の関係者の証言の裏付けに、一部矛盾が発見されたということでした。それもあって、私はこちらでいろいろな人にお会いしているわけです。有吉さんにもお目にかかれてよかったですよ」  佐々木は穏やかな表情に戻ってそう言ったが、州波はかなり警戒しているようだ。芹沢がなかば押しきるように佐々木を部屋に招いたことに対しても、不満な様子である。佐々木自身も、州波にはことさら慎重に質問をした。慶子には告げないことを固く約束したうえで、明石とのことについて質問する佐々木に、州波は必要な点だけ、ぽつりぽつりと話して聞かせた。だが、訊かれたことに最小限の答えを返すだけで、それ以上は決して言いたくないという素振りを隠そうともしない。その異常なまでの警戒心のせいで、州波が嫌疑をかけられるのではないかと思うと、芹沢には気になってしかたがなかった。 「明石が死んだ日は、有吉さんはフランクフルトに出張されてお留守だったんです」  芹沢は、がまんできずに横から口をはさんだ。そのことだけは、どうしても言っておかなければいけないと思ったからだ。佐々木をこの部屋に呼んだのは、州波に不当な疑いがかかることを、事前に避けるためでもあった。 「そうでしたか、もしさしつかえなければ、詳しい日程を教えてくださいませんか?」 「佐々木さん、この人を疑うのは筋違いですよ」  佐々木の言葉に、芹沢のほうが息巻いた。 「いいのよ、芹沢さん」  州波は凜として言った。 「私は、十八日の火曜日にニューヨークを発って、土曜日、つまり二十二日の午後三時過ぎの飛行機でJ・F・Kに帰って来ました。出張先は、フランクフルトのドイツ連銀です。明石さんが亡くなったのを知ったのは、帰宅後すぐ、部屋で新聞を見たときです」  もはや、何を訊かれても怖くはない。そんな州波の思いが言葉の端々にあふれている。 「あの、こういうことって確証がいるんでしょう? よかったら、うちの電話を使って、お調べいただいて結構ですよ。彼女が出張していた先に連絡すれば確認が取れるのではないですか?」  芹沢は、また口をはさまずにはいられなかった。佐々木は軽く微笑んで、では念のためと言いながら、電話のところに立った。腕時計を見ながら、おそらく部下に連絡をしているのだろうか、英語で二、三指示を出していたようだったが、すぐにまた芹沢のところまで戻ってきた。 「ありがとうございました。どうか気を悪くせんでください。これも仕事ですので、それに、こういうことは早めにはっきりさせておいたほうが、お互いのためですからね。私は、決して有吉さんを疑っているわけではありません。ただ、刑事というのは、誰に対してもイーコール・ディスタンスでないと務まらないものでして」 「では、僕に対してはどうしてアリバイの確認をされないのですか? 僕だってあのときマンハッタンにいたのですから」 「いや、弱ったな。実は、こんなことは普通ご本人には言わないのですが、あなたのアリバイについてはすでに確認してあるんです。ファースト・アメリカの人事部に問い合わせもしましたし、ホテルにも確認が取れました」  佐々木が困った顔で頭を掻きながら答えるのを聞いて、今度は芹沢が絶句した。佐々木は、どうやら芹沢が初めて電話をした直後に、すでに芹沢の行動についての確認を済ませておいたらしい。 「さすがに、おやりになることが素早いですね」  やっと芹沢がそう言った。自分も一度は疑われていたと知るのは、愉快ではなかった。 「お気を悪くしないでください。刑事というのは、そういう仕事なんですよ。人から証言を得ても、それだけじゃ不十分です。とにかく自分の納得のいくまで調べて、調べて、調べぬいて、初めてやっと信じることができる。特に裁判になると、決して故意でも強制でもない、あくまで任意の証言で、なおかつその裏付けが求められる。まあ、うっかり罪のない人を犯人にしてしまうことは許されないし、かといって本当に悪いことをした人間を野放しにもしておけない。だからこそ、どんなに些細なことでも、一つ一つ丁寧に自分の足で調べるしかないんですよ。おかげで、そういうことがすっかり習慣になってしまいましたがね。因果な商売ですよ」  口で言うほど簡単な仕事でないことは、芹沢にもよくわかる。よほどの忍耐力がないと勤まらないだろう。そんな佐々木の言葉に、州波は初めて表情をやわらげた。 「安心しましたわ」  州波のその一言に、すべての思いが込められているのを芹沢は知っていた。こういう男なら、明石のことを託していいという気になったのは、芹沢だけではないはずだ。州波はやっと心を開いたように、これまでのいきさつを自分から佐々木に語りだした。  途中、ニューヨークの佐々木の部下から電話が入り、州波のフランクフルト出張が確認されたという報告が入って中断されたが、州波の説明は無駄がなく、特に銀行業務の詳細にいたっては、部外者の佐々木にもよく解るように、平易で簡潔な解説をした。飛ばし取引の実態や、簿外債務などについては、佐々木から何度も質問が飛び出し、州波はそれに丁寧に答えた。  明石から預かった資料をすべて見せ、その中から破り取られた箇所も指摘した。そのうえで、このまま自分達にも調べを続けさせてほしいと州波は頼みこんだ。 「明石さんが亡くなられた当時、私が署内で見た限りでは、お預かりした書類の中にこういった破り取られた箇所はなかったと思います。全部チェックしましたので、もしあれば、不審に思ったはずですから、帰って記録を見ないとわかりませんが、これらがもし参考資料として押収されていれば、逐一押収物件のリストの中にメモされているはずです」 「押収したものは、一つ残らずリストを作成するのですか?」  芹沢が驚いたように訊ねた。 「もちろんです。一件の漏れもなく、すべて詳細に記録を残します。もしかしたら警察が調べる前に、誰かがホテルから持ち出したという可能性もなくはない。すでに半年以上もたっていますから、いまから指紋を調べるというのも無理がありますしね」  佐々木はそう言って、芹沢が明石の家から持ってきたノート類にざっと目を通した。その一つ一つを丁寧に手帳にメモしている。その様子を見ている限り、佐々木がさっき言っていたことが、嘘ではないことがよくわかった。 「できれば、私も一緒にここにしばらく居させてください。こうやって一緒に作業をしながら説明を受けたら、このあとニューヨークに帰ってからも、なにかと助けになると思いますから」  佐々木の申し出を受けて、三人は仕事部屋に場所を移した。州波はまたパソコンに向かい、さっきからの作業を再開した。最初佐々木は、州波の椅子のすぐ後ろに立ち、息を詰めるようにして、州波が操作するモニターの画面を見守っていた。  フォルダのなかには、おびただしい数の電子メールのやりとりが保存されている。明石と州波の間のメールだが、ざっと見ただけで三百通ほどになるだろうか。なかには同じ日付で、何通も交わされたものもあった。 「もし、有吉さんの言われるとおりだとすると、きっと外からわからないように、工夫がされているはずですよね。だとしたら、メールを一通一通くまなく読んでいくしかない。三人で手分けしてやらないと大変でしょう。私が有吉さんの私信を読むことを許していただけるのなら、もしよければ、こちらの空いているパソコンに一部写し取って、私にも作業をやらせてもらってもいいですか?」  佐々木の言うとおりだと芹沢は思った。パソコン操作には、佐々木も慣れている様子だ。それにこういう資料の山の中から、たった一通の証拠を探し出すような根気のいる作業は、むしろ普段粘り強い捜査活動をしている佐々木のほうが、得意とするところだろう。  州波もすぐに納得して、保存してある全部のデータを、ラップトップからいったん芹沢の二台のパソコンにコピーした。  そして三等分したメールを、それぞれ手分けして読み進めることになった。芹沢も佐々木も、最初はメールをざっとチェックするだけのつもりだった。明石の秘密のデータが挿入されているかどうかを調べるだけのことだ。二人の手紙の内容にまで踏み込むのは気がとがめる。しかしそう思いながらメールを開くうちに、つい引き込まれて内容まで読んでしまうことになった。それほど二人のやりとりが興味深かったからである。  簡単なところでは、ちょっとした言葉の意味や英語の翻訳を頼むメールである。辞書を調べても、なかなか理解できない専門用語や、比喩、相場独特の隠語など、明石の疑問はそのつど遠慮なくストレートに州波に伝えられ、州波はわかりやすく答えている。  メールの内容を読むにつれて、明石にとって州波の存在が、いかに心強いものであったかが伝わってくるようだった。  市場に流れている噂の真偽のほどや、決済業務の方法などについて、基本的な質問を受けたところでは、州波は誤解を避けるように気遣いながらも、簡潔で、もっとも無駄のない説明を与えていた。時間が勝負の鍵を握る、ディーラーとしての明石の立場を配慮した答え方だ。芹沢はその細やかな気遣いにも、州波の思いやりを感じた。  ほかにもありとあらゆる内容の質問が並んでいる。そして州波はそのひとつひとつに嫌がりもせず、丁寧に答えてやっているのがわかった。答えている州波自身が、非常に忙しい身であるにもかかわらず、まるで州波は明石に答えること自体を楽しむように、明石にメールを送っているのがわかる。 「なんだか、二人のやりとりをこのままプリントすれば、ものすごく良い参考書になりそうですね。私のような相場の素人にも、実戦に役立ちそうで、親切な解説だから解りやすい。国際金融市場における細かな疑問点があますところなく網羅された、高度な手引き書になりますよ。僕が読んだ箇所は、最初のころに明石さんが質問している部分ですから、素朴な質問が中心ですし、読んでいるととても勉強になりますよ。だけど、こういう質問にいちいちすぐにこれだけの答えを出してあげられるなんて、有吉さんってきっと凄い人なんでしょうね。おまけに親切で優しい女性だ」  佐々木が芹沢に向けて、隣りからそっと印象を漏らした。 「彼女は業界でもかなり有名ですよ」  芹沢の言葉に、佐々木は深くうなずいた。 「やっぱりね、わかりますよ。いや、僕はなんだか明石さんが無性に羨ましくなってきました。仕事上でこういう先輩がそばにいるのは本当に心強いものです。あ、こんなこと言ってはいけなかったかな」  佐々木のそんな素朴な感想には、芹沢もまさに同感だと思った。それほどまでに州波の回答は完璧だった。いや、それ以上に、明石の力になりたいという思いが、文面から滲み出ている。  そのあとは、佐々木も作業に集中し、三人はそれぞれ黙々とファイルを開き、中身を点検していった。もしや何か混入されていないか、どこかに秘密の資料が隠されていないか、祈るような気持ちで次々と画面に現れる電子メールを目で追った。  どれだけ探しただろうか。すべてのメールを調べ終えて、州波は大きく息を吐いた。州波の推理はやはりあたっていなかったのだろうか。 「だめだ、なにも見つからなかったよ」  芹沢が州波に次いでチェックを終えた。 「いや、こっちにもないみたいですね」  最後に佐々木も担当分のメールのすべてを読み終えた。もしかしてという期待が大きかっただけに、失望も大きい。州波は力なくフォルダを閉じた。 「私の推理は間違っていたようですね。絶対ここだと思ったんだけど。この電子メールのなかに、こっそりしのばせて隠しておけば、私にしかわからないんですもの」  よほど夢中でマウスを操作していたのだろう、州波は左手で右肩を揉みほぐすようにして芹沢を振り返る。 「また振り出しに戻ったか。今度は俺が代わって、ほかのフォルダも全部探してみるよ。もしかしてどこか見落としてないとも限らない。ほかの箇所も勝手に開いて読んでもいいかな?」  芹沢は、決してまだあきらめてはいないという素振りをして見せた。 「見られて困るようなものは何もないから、お願いするわ。どこでも好きなように見てください。私はちょっと一息つきたいから」  州波は疲れた様子で椅子を立った。 「そうだな、このへんで一度少し休もうか。俺がコーヒーをいれるよ」  そう言って芹沢がキッチンへ行ったのを見て、佐々木が州波に声をかける。 「じゃあ、その間に、ちょっといいですか。私さっきの有吉さんの説明のなかで、コピーさせてもらいたいものがあるのです。どうしても知りたかったことが、解りやすく解説されている箇所がいくつかあって……。いけませんか、コピーさせてもらって参考にしては? ニューヨークへ帰ったあと資料を調べるときや、上司やほかの部門の人間に事情を説明するのに、とても役立つと思うのですよ」 「構いませんけど、でも私の答えていることなんかで、本当に参考になるかどうか──」 「いえ、あれがいいんです。すみません、お願いします」  佐々木はそう言って、パソコンの前に座りなおした。 「芹沢さん、新しいフロッピーを一枚いただけませんか?」  椅子に座ったまま、開け放したドアに顔だけ向けて、佐々木はキッチンにいる芹沢に聞こえるように大声を出した。 「右側の引き出しの中にある新しいのを使ってください。どれでもいいですからどうぞ」  台所のほうから芹沢の声が返ってきた。引き出しをあれこれ探しても見つからない様子の佐々木を見かねて、州波が声をかける。 「ここに私のフロッピーがありますから、どうぞ使ってください。この箱の中のはみんなまだ使っていない新しいものですから」 「すみません。じゃあ、一枚いただきます」  州波が差し出したフロッピーの箱の中から、佐々木は一枚を取り出してパソコンに挿入した。 「新しいものなので、まず|初期化《イニシヤライズ》してくださいね」 「わかりました。このパソコンは私がいつも使っているものと同じタイプですから、操作はわかります」  そう言って佐々木は、立ち上がってくる画面を見た。 「あれ、このフロッピー使用済みですね。すみません間違いました」  あわてて州波を振り向いた佐々木は、照れたように頭を掻く。 「そんなはずはないですわ。その箱の中のフロッピーはみんな未使用のはずですもの。ちょっと待ってください、あら、これは──」  そのとき、モニター画面に現れたフロッピーのタイトルを見て、州波は自分の目を疑った。未使用のはずのフロッピーに、すでにタイトルが打ち込まれていたのである。 「 N. U. H.」  佐々木がタイトルを声に出して読んだ。 「あっ、もしかして、これじゃないですか?」  佐々木の声が大きくなる。 「そうですよきっと!」  州波も思わず大声になっていた。明石が州波の留守に部屋に入って、極秘のファイルを置いていったとき、事件に関わってきた当事者に関する情報だけは、安全のため別の場所に分けて隠したのだ。それが、このフロッピー・ディスクだったのである。 「どうかしたのか?」  コーヒー・マグを載せたトレイを運んできた芹沢が、デスクに近づいて来た。 「見つかったんですよ」  佐々木が先に興奮した声をあげた。 「きっとこれだわ。未使用のフロッピーを入れておいた箱のなかに、『 N. U. H.』とタイトルが書かれたフロッピーが紛れこんでいたの。これは明らかに私のものじゃないわ。きっと明石さんが置いていったものに間違いない。マンションを出るとき、ラップトップと一緒に持って来たフロッピーなんだけれど、私はこのところずっと|光磁《M》気ディ|スク《O》ばかりで、まったくフロッピーを使うことがなかったの。この箱もずっと長い間開けることがなかったのよ。だから今日まで気づかなかったんだわ」 「早く開いてみましょうよ」  佐々木がそう言うまでもなく、州波は立ったまま佐々木の横からマウスに手を伸ばした。州波のいつもの癖なのか、一度小さくマウスを左右に振って、マウスの裏のボールの位置を安定させる。そしてすぐに「 N. U. H.」と書かれたタイトルを二度クリックした。  マウスに置かれた州波の指が、かすかに震えている。州波の緊張は極限に達していた。やはり明石は秘密のデータを残していたのだ。そしてその在りかを伝えるために、芹沢にあのファックスを送ったのである。  一瞬空気がピンと張り詰めた。州波は黙ったまま、モニター画面を凝視する。いったいどんな秘密が残されているのか。これで明石の死の真相も明かされるかもしれない。そう思うと、州波の指の動きは自然に先走ってぎこちなくなる。  州波が開いていくファイルには、果たしてどんなことが書かれているのだろうか。佐々木は椅子にすわったままで、画面を食い入るように見つめていた。その隣りに立った芹沢も、目の前の二十インチの画面に吸い寄せられるように視線を向けた。三人がそれぞれの思いを抱いて、画面にまもなく現れるはずのものを、息を殺して見守った。  一瞬、画面が白くなった。 「なんだこれ!」  最初に声をあげたのは芹沢だ。 「どうして?」  思わず、州波も声を漏らす。 「空っぽ──ですよね?」  佐々木が確認するように言った。まるで、あとの二人には、自分がいま目にしているものとは、違うものが見えているのではないかと、問いたそうな顔だ。だが、三人の目の前に現れたのは、紛れもなく、ただの白い画面だった。一字の文字すら書かれていない。ディスクのタイトルが「 N. U. H.」とつけられているだけなのである。 「何も書いてないなんて──」  ずっと期待させておいて、最後の最後で肩すかしを食らったようなものだ。 「そんなばかな」  州波は、まだあきらめきれないという様子で、一度開いたディスクをいったん閉じ、またもう一度開いてみた。だが、結果が変わるはずはなかった。目の前に現れてくるのは、どう見ても、虚しいほどに白い画面ばかりだ。 「どうして何も書いていないのでしょうね?」  佐々木は首をひねりながら、芹沢の顔を見る。 「以前有吉さんが使っておられたものではないのですか?」  今度は州波の顔を見た。 「いいえそれはありません。これは、明石さんのフロッピーに間違いはないと思います。それは断言できます。彼はここにきっと何かを残そうとしたのよ。だけどなんらかの理由で、途中で断念したのね。それとも残せない理由が何かあったのだわ」  州波は、未練がましく何度も閉じたり開いたりしながら言った。 「『 N. U. H.』というキーワードがあるわけだから、やっぱり何かを残そうとしたことだけは確かでしょうね。だけどいったい何があったんだろう。どうしてせっかくのデータを入れなかったのでしょうね。フロッピーに残しておくぐらいじゃ、単純すぎて危ないと思ったのかな」  佐々木がそう言ったのを聞いて、州波も大きくため息をついた。 「もうこれで完全にお手上げね。明石さんが、何かを残そうとして、途中で残せなくなったことがこれで明らかになったわけよ。こうなれば、もう救いはないわ。振り出しに戻るどころか、八方塞がりの状態ですもの」  肩が急に重くなった。口を開くのも|億劫《おつくう》な気がした。空気がどんよりと濁り、重苦しく救いのない沈黙が部屋を満たしていく。音が消え、望みが消え、そして時間までもが消えたような気がした。 「あ!」  突然芹沢が口を開いた。何を思いついたのか、一人で何度もうなずいている。州波はそんな芹沢に、黙ったままで怪訝な目を向けた。 「そうだよ。きっとそうだ。たぶん明石は、一旦はこのフロッピーに保存したんだと思うよ。そして、それを全部消去したんじゃないかな」  芹沢は自信たっぷりな様子だ。たとえそうだとしても、そのことにどんな意味があるというのだろう。 「どうして消したりするのよ?」  州波は不服そうな声を出す。 「危ないからさ、佐々木さんが言うとおり、単純すぎて誰にでも見つけられてしまう」 「危ないことぐらい最初からわかっているわよ。そりゃ見つかったら困るけれど、かといって消してしまったら、何にもならないじゃない。どこか別のところに隠したっていうわけ?」 「ああ、そうとも言える」 「何なのよ。それじゃあ、別のところってどこなのよ?」 「だからさ、これでいいんだ」  芹沢は満足そうにうなずいた。 「どういうことなのよ。どうしてこれでいいの?」  何を言っているのかまるでわからない。州波は苛立ちすら覚えたが、芹沢には州波の気持ちなど通じていないらしい。 「なあ、明石もパソコンには結構詳しかったかい?」 「ええ、すごく好きだったみたい。だけどそれがどうかした?」 「やっぱりな、じゃあこれに間違いないよ。佐々木さん、このフロッピーをイニシャライズし直したりしていないですよね?」 「はい、私はまだ何にもしていませんよ」  佐々木も当惑した顔で首を振った。 「よし、それならきっと大丈夫だ」  芹沢はきっぱりと言い切った。 「ねえ、いったいどういうことなの? 大丈夫だって言っても、データが全部消されていたらどうしようもないじゃない。このフロッピーは空っぽだったのよ」  州波は苛立っていた。芹沢が何を考えているのかが、まったく理解できないのだ。 「まあ、ちょっと待ってくれよ。ええと、たぶんここにあったはずだ」  芹沢は何も説明しないまま、そう言ってデスクの横の引き出しを開け、何かを探し始めた。 「あった。これだ」  やがて芹沢は、引き出しの奥のほうからプラスティックのケースを見つけ出し、中からCD‐ROMを一枚取り出した。 「何ですか、それ?」  佐々木も思わずそう訊いた。だが、芹沢はそれにも答えず、取り出したCD‐ROMを佐々木のパソコンに挿入する。 「まさか、消えたものを読み取るなんて言うつもりじゃないでしょうね」  州波は気のない声で言う。 「その通りだよ」  芹沢はこともなげに言ってのける。 「え、そんなことができるの?」  そう訊いた州波の声と、ケースに書かれた文字を読む佐々木の声が重なった。 「ノートン・ユーティリティ」  挿入されたCD‐ROMソフトがパソコン内に読み込まれた。芹沢が、立ったまま横から手を伸ばしてマウスを使い、フォルダを開くと、画面にはピンクのシャツにネクタイをした男の絵が現れた。シャツの袖をまくり上げ、腕組みをし、黒縁の眼鏡でこちらを見ている男の絵は、このノートン・ユーティリティというソフトのシンボルとなるアイコンなのだ。 「データの保護や、ダメージを受けたり消失したデータの回復を行なうソフトだと書いてありますね」  芹沢と席を交替するため、椅子から立ち上がりながら、佐々木はケースに書かれた説明を読みあげた。芹沢は、椅子に座る間も惜しむようにマウスを操作し、次の画面を呼び出す。まもなく現れたいくつかの選択メニューの中から、迷わず一つを選んでクリックした。 「アンイレーズ?」  芹沢が選んだメニュー・バーのタイトルを、佐々木がまた読み上げる。 「これでほんとに、一度消去したファイルが呼び戻せるというのね?」  州波の声に、今度は芹沢が大きくうなずいた。 「たぶんね」  佐々木も、州波も、まるで手品かなにかを見るような思いで、芹沢の次の操作を見守った。すると間もなく、消去されたデータのリストが現れてきた。 「あったわ! ほらこれよ、これに間違いないわ」  突然大きな声をあげ、州波はモニター画面を指さした。リストには、三種類のファイルが表示されていて、「関係者リスト」と「会議録」、それに「命令系統」というタイトルがつけられていた。タイトルの横には、データの容量と一緒に、これらが消去された日時がはっきりと表示されている。 「一九九七年十一月十八日二十三時十七分になっている。明石さんが亡くなる前夜ですね」  佐々木はそう言って、言葉を途切らせた。州波も、芹沢も、すぐには声を発することができなかった。おそらく、三人とも同じ思いだったに違いない。  この瞬間、明石は確かにまだ生きていて、州波の部屋で、このデータの処理をしていたのだ。リストに現れた作業時刻の表示が、その事実を生々しく伝えている。 「俺と会ったあの夜だ。あいつは俺をホテルまで送ってくれたあと、自分のホテルに戻らないで、君の部屋に立ち寄ったんだ。もしかしたら、僕に送ってくれたあのファックスも、君のところから送ったのかもしれないな」  絞り出すように言った芹沢の言葉に、州波は無言でうなずいた。  明石は、いったいどんな思いでこのフロッピーに向かっていたのだろうか。このフロッピーに一度データを保存し、そして再度これが読まれることを願いながら、思いきって消去したのだろうか。そしてそのとき明石は、翌日に迫った自らの死を、なんらかの形で予感していたのだろうか──。  やがて、芹沢は気を取り直して、次の処理に取りかかった。それぞれのファイルを復活させ、別の新しいフロッピー・ディスクに保存しなおす。そうやってからあらためてディスクを開いてみると、これまで探し求めていたデータが、みごとなまでに回復されていることが確認された。 「まさかこんなふうに細工をして、未使用のフロッピーに紛れ込ませてあるとは思いもしなかったわ。私はこれまでも何度も部屋中を調べたのよ。なのに、この箱の中のものは、新品で未使用のフロッピーだとばかり思っていたから、いちいち開いてみることはしなかったのよね」  州波は画面を見ながら、感慨深い声を出す。芹沢は、一番最初に「関係者リスト」というタイトルのファイルを選び、開いてみた。 「やっぱり……」  モニター画面一杯に現れてきた人物リストを見て、三人は息をのんだ。 「凄い証拠資料ですよ。長年の隠蔽工作に関わっていたすべての人間が、本店の人間から各子会社の担当者まで、しかも担当部署や役職名にいたるまで、系統立てて網羅されているじゃないですか」  佐々木の声が弾んでいる。あとの二種類のデータには、康和銀行の損失隠蔽に関係があると思われる会議の記録と、どういう命令系統で隠蔽がなされたかという、具体的で詳細な説明を記した記録が残されていた。 「やっと見つかったね。おめでとう、州波さん」  芹沢は思わずそう言っていた。 「明石さんはやっぱり私たちにこれを託して行ったのね。これなのよね。これを、ずっと探し続けてきたのよ。このために私は……」  州波はあとの言葉を口にはしなかったが、それがどういうことなのか、芹沢にはよくわかるような気がした。この資料を見つけるために、州波は自分の全てを犠牲にしたのだ。なにもかもを惜しげもなく差し出して、ひたすらこの数枚のファイルのためだけに突き進んできた。  ニューヨークでの恵まれた職場を放棄し、わざわざ日本までやって来たのも、そして何人もの男達に近づき、彼らに働きかけたのも、すべてはこのためなのだ。男達を操って、ついに康和銀行を窮地に追い込むまでに至らしめたが、その代償として、社会的な信用も、長年実績を築いてきた仕事までも失う羽目になってしまった。そのことは芹沢自身がよく知っている。  明石の死が、州波にとってどれほどのものなのか、芹沢には理解しきれないものがあるのかもしれないが、もしこれが見つからなければ、すべての苦労が無駄になっていたことだけは明らかだ。だが、これでやっとその有力な手掛かりを手にすることができたのである。芹沢はそのことが、州波のためにも嬉しかった。 「これ、さっそくプリント・アウトしましょう」  佐々木が言い出し、芹沢はすぐに作業にとりかかった。 「有吉さん、私にも一部コピーをいただいてもよろしいですね。貴重な証拠資料として、ニューヨークに持ち帰りたいのです。私は明日、もう一度本多さんに会うことになっているのですが、そのときこの件のことも、それとなく探りを入れてみようと思います」 「本多さんというのは、康和銀行の元ニューヨーク支店長でね、明石の上司だった人なんだよ」  作業を手伝いながら芹沢がそう説明するのを聞いて、州波が一瞬表情を硬くした。 「警察に証拠としてお渡しするのはいいのですが、われわれがこの資料を手に入れていたことを、康和銀行の人間に知らせるのは、慎重にならなければいけないと思うんです」  州波が一番気になっていることだった。 「もちろんその通りです。決して不用意に漏らすつもりはありませんよ」  佐々木は当然心得ているという顔で言う。 「確かにそうだな。ずっと探していたものが見つかったので、有頂天になっていたけれど、勝負はこれからと言うべきだもの。むしろこの情報の扱い次第では、事態は解決どころか逆になってしまうこともありますからね」  芹沢は、同意を求めるように佐々木を見た。 「そうですね。さらなる隠蔽工作を画策したり、あるいはもっと別の手段に出る可能性も考えられますからね」 「明石さんに全ての罪を着せて、個人的な犯罪みたいにでっちあげられる可能性もありますでしょう?」  州波は何よりそれが心配だという顔をした。関係者の摘発を優先するあまり、明石の扱いが不本意なものになることだけは避けなければならない。 「それに、下手をしたらこの情報を握っているあなた方に、身の危険が及ぶことも考えられます」  佐々木にとってはそのことが心配なのだ。 「この明石のリストを見るかぎり、副頭取の森政一というのがラインの筆頭になっていますよね。彼は康和銀行の中では、一応国際派としてのし上がってきたという男で、もっぱら次期頭取候補といわれている実力者だと聞いたことがあります。彼が事件の指揮者だとすると、今回のことは銀行全体の組織ぐるみの犯罪であることも考えられますからね。頭取に損失隠しを直訴するというのも考えものです。どういう形で告発するのが一番いいのでしょうね?」  芹沢はそう言ってから、途中で思いついたように佐々木を見て続けた。 「そうだ、新聞社はどうですか。やはり世間に正しく公表するのはそれが一番効果的でしょう。信頼できそうな記者に、こっそりコンタクトをとってみましょうか」 「いいえ、新聞社はどうかと思うわ。もし私がからんでいると知れたら、今回の大蔵省の役人とのスキャンダルを指摘されて、曲解されると困るもの」  州波はマスコミにはもう懲りたというように首を振る。 「とにかく、まずなにより日本の警察に知らせるべきです。地検の特捜部ならうまくやってくれますよ。そして金融当局に告発するというのが一番でしょう。日本の事情はよくわかりませんが、何といっても銀行の問題なのですから、大蔵省に知らせないでいいわけがない。これだけの資料が揃っているわけですから、すべて渡して、これを参考に本格的な調査をしてもらうのですよ」  佐々木が当然だという顔で言った。 「いいえ、それはだめです。彼らは基本的に銀行を守る側に立とうとしますから。それに、事件の発生過程において、自分達の監督状況や、責任能力を問われないだろうかという意識が働くでしょう。きっと内々に、穏便に、という具合に、事を収めようとする動きに出るのじゃないかしら。彼らはたとえ口では正論を唱えていても、いざとなったらすぐに保身に転じる人種の集まりですもの」  州波は苦々しく言い放った。 「そんなばかな。それでは監督官庁の存在意味がないじゃありませんか?」  佐々木が信じられない顔をする。 「悲しいことですが、それがいまの日本の現状なんです。ですから、私としては、もっと確実で即効性のある方法で、この事件を告発したいと思っているのです」 「だけど、やはり警察には届けないわけにはいきませんよ。私の立場としても、それだけはぜひお願いしたい」  佐々木がそう言うのももっともである。州波もそれは十分承知していた。 「もちろん警察には届けますよ。ただし、そのあとはどうするかだな。どこか康和銀行でも金融当局でもなくて、徹底的に実態を調査して、たとえ役員でも頭取でも、首謀者をあばき出したら厳しく制裁措置がとれる立場のところ。そんな頼もしいところなんて、どこかにないかな」  芹沢はそう言いながら首をひねって、州波を見た。 「康和銀行に社会的な制裁を与えて、世間の批判にさらす必要は絶対にあるよね。いずれにせよ新聞社には公表すべきでしょう。日本の警察にすべてをまかせると、捜査はしてくれるでしょうが、社会に公表しないで、みんな秘密裏に処理してしまうこともあり得るんです。捜査を進める上でやむをえない場合もあるのだろうが、世に発表されるまでに時間がかかり、途中で下手な憶測やデマが流れるという事態も考えられますからね」  芹沢がそう続けて説明すると、佐々木はまたも信じられないという顔をした。 「国民は知る権利があるではないですか。たとえ捜査の進行上極秘にする必要があるとしても、基本的にこういう事件についての公表は行なうのが原則でしょう」 「日本という国は、われわれの理解をこえた不思議なところなのです」  州波は皮肉をこめてそう言った。 「これまでも似たような不祥事は、数えきれないほど起きてきたでしょう。でも、いくら事件が発覚しても、いつも誰か適当な人が一人か二人犠牲になって、引責退任するぐらいであっけなく幕切れでしょう。そんなことでうやむやにするのではなく、もっと直接的に、事件に関与した人間すべてに決定的なダメージを与える手段はないかしら。社会的にも二度と立ち上がれないほどの罰を与えて、事件の再発が二度とないようにする方法を取りたいじゃない。誰が悪いのか、責任の所在をはっきりさせ、何がどう問題なのかという認識を持たない限り、また同じことをくり返すに決まっている。明石さんのことを考えると、絶対に許せないし、本当の癌細胞を根こそぎ断ち切るまで手を抜きたくないでしょう。下手なトカゲの尻尾切りで終わらせたら、まったく意味がないわ」 「その通りだな。何かいい方法はないかな。事件の真相を国民の目に晒すという点では新聞社がいいと思うし、関係者に制裁措置を与えるとなると、康和の組織の中にいる人間じゃないとできないしな。まったくの第三者が、よその企業の組織や人事にまでは口を出せないものな。かといって大蔵省や警察では、どこまで確実に中心的な大物にまで手を下せるか疑問だし──」  芹沢は腕を組んで首をひねった。 「ありましたわ。そう、ひとつだけ」  州波が、そう言って大きくうなずき、思わせぶりな眼を佐々木に向けた。 「そうか、確かにあったよ。ひとつぴったりのところが」  芹沢もすぐにわかったようだ。 「康和銀行以外のところで、徹底的に実態を調査して、たとえ役員でも頭取でも、首謀者をあばき出したら厳しく制裁措置がとれるような、そんな頼もしいところ」  州波がさっきの芹沢の言葉をそっくり真似て繰り返した。 「どこなんですか? そんな理想的なところって」  佐々木は自分だけ思いつかないことが悔しいという顔で首をかしげた。だが、その瞬間ハッと思い当たったように、顔をあげた。 「あっ、わかりました。そうか、あそこですね。この前、ニュースでやっていましたよね。近いうちに康和銀行の持ち株会社になるというところ。そう、トヨカワ自動車!」 「そうです。トヨカワなら、持ち株会社設立を前に、康和銀行の経営状態を詳しく調査するでしょうし、会計監査も詳細にできる立場になりますものね。われわれの詳しい証拠資料を提供して、この際彼らに徹底的に調べてもらいましょうよ。それに持ち株会社として、康和銀行の経営や役員人事にも、口をはさむ権利を当然取得するでしょうからね。これまで康和の組織内で隠されてきた悪事を調べ上げ、その首謀者たちに対しては一人残らず、それなりの厳しい制裁を加えてくれるでしょう。さっそくこの資料を持って、トヨカワの幹部を訪ねてみることにしますわ」  州波は満足そうに言った。 「それについては、私のほうでも協力しますよ。しかし、私はさっき、あなたと明石さんとのやりとりの電子メールを見ていて、有吉さんって優しい女性だと言いましたけれど、あの言葉撤回させてください」  佐々木が急に神妙な顔をして言った。芹沢は何事かという顔で佐々木を見る。 「やっぱり、おそろしく恐い人でした」  そう付け加えた佐々木が、あまりに真顔だったので、かえってそれがおかしかった。佐々木の言葉に芹沢が最初に吹き出した。心に何もやましさのない人間だけが、素直に発することのできる笑い声だと州波は思う。周囲の人間を引き込むような笑いだった。  つられて州波も少し笑った。佐々木も愉快そうに目を細めて州波を見た。自分の言った冗談が、思わぬ笑いを誘ったことが嬉しかったようだ。  ささやかな笑いが、つかのま、すべてを洗い流してくれるのを州波は感じていた。これまで直面してきた数々の苦難や、悲しみも、この一瞬だけは消えてくれるような気がする。  いまのこの心優しい笑いが、自分がこれまでしてきたことも、これからしようとしていることも、ひとつ残らず浄化してくれればいいと、州波は密かに念じていた。 [#改ページ]  エピローグ     1 「先日はありがとうございました。芹沢さんにも有吉さんにも、お会いできて本当によかったですよ。こんなに早く事件が解決できたのも、みんなお二人のおかげです」  ニューヨークからかけてきた電話での、佐々木の声は弾んでいた。 「いやこちらこそ、大変お世話になりました。これできっと明石も喜んでいることでしょう」  芹沢は心から礼を言いたかった。 「この前は捜査の途中でしたので、詳しくお話しできなかったのですが、目撃者の証言に矛盾があることがわかりましてね。それで再捜査を始めることになっていたんです。だけど、ここまで大掛かりな事件だったとは、正直なところ思っていなかったですよ」  声が弾んでいる。事件の全面解決が、何より嬉しいのだろう。東京に来ていたのが、休暇ではなく捜査のためだったことも、いまになってやっと明かせるのだと佐々木は言った。 「それにしても、あのとき東京で芹沢さんや有吉さんからうかがった康和銀行の内情や、明石さんの置かれていた社内的な背景などの話がなければ、ここまで大掛かりな再捜査に踏み切ることはできませんでした。康和銀行の巨額損失隠蔽事件として、結局は日本の検察庁やFBIだけでなく、日米両国の金融当局まで巻き込んだんですからね。その必要性を上司に説得できたのも、預かった資料や証拠のフロッピー、それにご遺族の手元に戻っていた手帳などがあったからこそです。実際明石さんが亡くなった直後には、ホテルの部屋にあったはずなのに、あの手帳の存在はこちらのリストにはなかったんですからね。そのあたりが決め手になったというわけです。明らかに誰かが手を回して証拠隠滅を謀ったということですから」  佐々木は、ニューヨークに帰ったあと、即座に再捜査に向けて行動を開始したことについて、詳しく語った。芹沢には報告する義務があるとでもいうような、佐々木らしい律儀さが感じられる。 「これでやっと明石の無念も晴れますよ。だけど、康和銀行があのミセス・バーンズまで抱き込んでいるとは思わなかったなあ。そうですか、あの男が明石を突き落としたのですか──」  芹沢は言葉を途切らせた。 「向かいのアパートメントから見ていたという証言者の老婦人が、ミセス・バーンズの知りあいだとわかったのはまったくの偶然でした。彼女らは素知らぬ顔でずっと隠していましたからね。二人の関係が発覚した経緯には、何かの不思議な導きがあったのではないかと、話しているぐらいです。元支店長の本多の態度も、何か隠しているのではないかと、やはり少し気にはなっていたのですが、あの目撃者の証言が意図的なもので、ミセス・バーンズから頼まれてした偽証だとわかったことから、本多を本格的に追及できたのです」 「しかし、本多がかばっていた|道田《みちた》という男には、僕も仮通夜のときに会ったことがあるんですよ。まさかあのときの従順そうな男が、明石を殺した張本人だったなんて、思いもしませんでした」  芹沢はそう言いながら、仮通夜のときに名刺を差し出した道田という若い部下の、どこかおどおどとした顔を思い出していた。ニューヨークのホテルで会ったサブ・マネージャーのミセス・バーンズが、縁なしの眼鏡の奥から、見下したような目付きで見ていた顔も浮かんでくる。 「かばったというより、無理に真相を隠させたと言うべきでしょう。結局ミセス・バーンズは康和銀行から口止め料として五万ドルも受け取っていたことを吐きましたよ」 「やっぱり金のためでしたか?」 「ええ、それに康和銀行は、あのホテルにとっては固定の上客だったのですね。年間契約をしていたそうですから。康和銀行側はそのことを盾にとって、彼女を脅したそうです。すぐ隣りのブロックに新築のホテルが完成し、このところ営業成績が落ちて、客の獲得にも苦慮していたようですからね。彼女の立場としては、一社でも客を減らしたくないという思いがあったのでしょう。しかも彼女は病気の母親をかかえていて、金が欲しかった。康和銀行はそのあたりの事情まで調べて知っていたらしく、本多が金を使ってなんとか彼女の口を封じようとしたのです」  佐々木は、事件当時に感じた康和銀行に対するかすかな不信感が、結局当たっていたという事実に、捜査官としての確かな自信を得たようだ。 「それにしても、明石が損失隠蔽を告発しようとして、頭取あてに手紙を書いていたというのは驚きでしたね。しかも、その手紙が結局頭取まで届いていなかったと聞くと……」  そんなことさえしなければ、対立する国際派の森副頭取一派から目をつけられ、口封じのために殺されることもなかったのにと、芹沢は言いたかった。最後の最後で明石を裏切ったのが、自分がずっと可愛がっていた部下の道田だったことを、死の直前の明石は、どんな思いで知ったことだろう。  組織の名誉を守るために損失を隠し抜くべきか、それとも正々堂々と公表し、そこから立ち直る努力をすべきか、明石は悩み続けたに違いない。  そして、やっと決心して、そこから抜け出そうとした途端、まるで謀反者のように扱われ、殺されたのだと思うと、たまらなくなってくる。 「もっとも、道田が明石さんの背中を突いたのは衝動的な行為のようでした。康和銀行のトップの人間も、損失の公表をするのは考え直すように、彼に明石さんを説得しろとは言ったものの、殺せとまで言ったわけではないですから。だが、明石さんの決心は固く、内部告発も辞さないという態度だった。そんな明石さんをどうしても止められなくて、道田は両者の板ばさみになり困り果てたというんですね」  道田は自供のときに号泣したという。ちょうど道田の妻に子供ができたばかりで、なんとしても職を失いたくなかったのだ。取り調べに際して、道田はひどく取り乱してはいたが、やっとこれでゆっくりと眠れるようになると言って、自白後はむしろ感謝の言葉さえ述べたようだ。道田にとっては、明石はいい上司であり、先輩だったのだ。しかし、新しく生まれてくるわが子を、なんとしても守りたいと願う父親の本能が、道田の判断を狂わせてしまったと言うべきなのだろうか。芹沢はそのことにも、やりきれなさを感じてならなかった。 「明石さんは道田に対して、逆に協力してくれたら告発後も康和に居られるように約束すると言ったそうなのです。損失隠蔽工作には、道田は関わっていなかったと証言するからと、明石さんははっきり言ったのだそうです。だが、道田はそれを信じることができなかった。もし告発したら、康和銀行の組織に司法の手が入る。そうなれば隠蔽工作に加担した自分の責任も追及されると思ったのでしょう。それより本店の幹部のほうについて、秘密を守ったほうがいいと判断したのですね」  佐々木の言葉は穏やかで、道田という人間を憎みきれない気持ちが滲み出ている気がした。確かに、道田が明石を殺したことに間違いはない。だが、ある意味では彼もまた犠牲者だと言いたかったのだろうか。芹沢の部屋で、どんな面倒な作業も苦にはならないのは、罪を犯しておきながら自分だけなんとか逃れようとする人間が、ただ許せないからだと語った、あの佐々木の鋭い目が浮かんでくる。捕まるまでは憎いとさえ思った犯人なのに、逮捕した途端いつも不思議なほど憎しみが消えてしまうのだというのを聞くと、それも佐々木らしいという気もする。  芹沢は、明石を殺した犯人が、同じような弱い人間だったことに、せめて一抹の救いがあるような気もしてきた。 「ホテルで、向かいの工事中の部屋に入ったのは、たまたま話の流れだったようです。窓が枠ごと取りはずされ、壁にぽっかり穴が開いたままだったというのです。かといって立ち入り禁止の札がかかっているわけでもないのを、明石さんが見に行ってみようと言いだして、道田もついて行ったそうです。もちろん道田は、明石さんをそこから突き落とすことになるなどとは、思ってもいなかった。だけど、魔がさしたとでもいうのですかね。途中から明石さんと口論になった道田は、このままだと、もう明石さんを止めようがないと思い、気が付いたら背中を押していた。道田は明石さんを突き落としたあと、どうしていいかわからず、急いでエレベータに乗ったのだそうです」 「そこで道田はミセス・バーンズに顔を見られたのですね」  芹沢が口をはさんだ。 「そうです。夢中でホテルの玄関を出て、人だかりがしているのを見たらすっかり怖くなり、道田はそのままその場を逃げ出したのです。自宅に戻ったあと、なんとか自分を落ち着かせ、すべて観念して、警察に自首しようと思ったそうです。それでその前に、支店長の本多に電話で報告したのですね。これからすぐに自首するつもりだと。ところが、その時点で道田に口止めの圧力がかかったというわけです。道田が自首をしたら、警察は銀行の内部や背後関係をすべて調べるでしょう」 「だからなんですね。彼らには、調べられたら非常に困ることがあったわけですから」  ミセス・バーンズのところには、すぐに本多のほうから電話が入ったという。金を渡して、明石はその夜はずっと一人で部屋にいたと、偽証させるためだ。 「ミセス・バーンズは、たまたまホテルの向かいのビルに住んでいた、彼女の母親の友人を抱き込んで、ちゃっかり目撃者に仕立てあげたんです。その老婦人は、確かにあの夜何かが落ちるのを目撃してはいたのですね。ただ、それが男性だったかどうか、いえ、人間だったかどうかすら、よくわからなかったというのが本当のようです。もちろん、自殺かどうかの判断なんかできるはずはありません。しかし、ミセス・バーンズにうまく洗脳されたんですね。というより、泣きつかれたと言うべきでしょうか」  間違いなく自殺だったと信じ込まされた老婦人は、涙ながらに訴えるミセス・バーンズに、目撃者として証言することを買って出たという。工事中だったホテル側の責任を問われ、訴訟問題に発展したら、病気療養中の母親を抱えたまま、ホテルを辞めなければならなくなる。そう聞かされては、母親の古い友人として、彼女を放ってはおけなかったのだ。 「ミセス・バーンズへの口止め料は、銀行が用意したのですが、どうしても許せないのは、わざとその受け渡しを道田本人にさせたという点です」  佐々木はあらためて語気を強めた。道田に対し、自ら殺人の証拠隠滅を謀るように仕向け、自首する自由さえも奪ってしまうというやり方には、芹沢自身も怒りを抑えられなかった。そうまでして、康和銀行が守らなければならなかったものとは、いったい何だったのだろうか。 「本多にしても、ほかの康和銀行側の人間にしても、そこまでして銀行の不正を隠し通さなければならなかったのでしょうか。組織の言うままになってしまう道田自身の弱さも、許されていいわけではないのですが、明石さんの生命も、道田の人生も、組織のためならこれほど軽んじられてしまうものなんですかね」 「まったく、やりきれない話ですよね」  芹沢は思わずそうつぶやいた。 「そうそう、ニューヨークの新聞にも出ていましたけれど、康和銀行の幹部たちは、頭取以下現在の常務以上の役員たち全員が免職になったそうじゃないですか」 「ええ。いずれ道田の一件に関しても、なんらかの法的な措置が取られることでしょう」 「それがね。道田はもちろん殺人犯ということになりますが、康和銀行が、道田に明石さんの殺害を隠し通せと命令した件については、残念ながら法的な処罰はできないんです。誰かが殺人犯人だと知った場合、警察に通告する義務は生じますが、本人にその事実を隠せと言ったからといって、それを法的には罰することはできないんです」 「そんなものなんですか? 法律なんて、いざというときには加害者ばかりを保護するようにできているとしか思えないな」 「私も残念ですが──」  佐々木はすまなさそうな声を出した。 「どちらにしても、明石の死の真相が明らかになって、本当によかった。感謝しています。すべては佐々木さんのような熱心な刑事さんがいてくださったからですよ」  芹沢は、心から佐々木の労をねぎらった。 「いや、私も嬉しいですよ。さあて、つい長話をしてしまいました。まだほかにも未解決の事件を抱えていますのでね、一件解決したといっても、私の仕事はこれで終わりじゃないですから。これからまた別の捜査に出かけるところです。じゃあ、また。近いうちにニューヨークにも遊びに来て下さい。今度はゆっくりとね。あ、有吉さんにもよろしくお伝えください」  佐々木はそれだけ言うと、電話を切った。  電話を終え、興奮を抑えきれない思いで芹沢が隣りの仕事部屋に戻ると、州波がパソコンのデスクに向かっているのが見えた。食い入るようにモニター画面を凝視している。  やるべきことをすべて終え、佐々木がニューヨークへ帰ったあと、芹沢の部屋にまだいくつか荷物を残したまま自分のマンションに戻っていた州波は、今日になって、やっと荷物を取りにやって来た。  リビングの電話で佐々木と話している間、姿を見せないのが気になっていたが、州波は自分のパソコンを開いて何をしていたのだろう。デスクの上に置かれたラップトップの画面を見つめて、州波はじっと動かなかった。その横顔があまりに険しかったので、芹沢は声をかけるのを一瞬ためらったぐらいだ。  放心状態のまま、義務的に顔だけ芹沢に向けた州波の唇が、小刻みに震えているような気がした。 「どうかしたの?」 「なんでもないわ」  州波はあわてて顔をそむけ、大きく息を吸いこんだ。無理にも気持ちを立て直そうと努力しているのがわかる。 「まだ何かあったのか?」  そう言いながらそばに近づいて、椅子の横に立った。今日の州波はいつもとどこか違う。芹沢は心配そうにモニターをのぞきこんだ。画面には明石との古い電子メールのやりとりが現れている。きっと昔の文面を読み直して、明石とのことを思い出していたのだろう。 「電話はニューヨークの佐々木さんからだった。君にもよろしくと言ってたよ」  芹沢はわざと話題を変えた。 「そう」  短く答えた州波の声がかすかにうわずっていた。それを隠すためにか、州波は小さく咳払いをした。 「これで事件も本当に全面解決だ。明石を突き落とした犯人も捕まったし、頑張ったかいがあったな」  州波は何も答えなかった。 「だけど、明石はやっぱり最後は慶子じゃなくて、君を選んだのだね」  感慨をこめて芹沢はそう言った。州波をなんとか元気づけたかった。 「どうしてそんなことが言えるの?」  州波はやっと振り向いて、まっすぐに芹沢を見上げた。怒っているような顔だ。 「そんなの決まっているじゃないか。あいつの最後の、しかも一番大切なメッセージは、慶子にではなく君に託したんだよ。まるで、自分の死を予感していたみたいにね。明石がすべての資料を揃えて、事件を公表する準備をしていたことは、残されたデータの整理具合を見ればすぐにわかった。もし途中であんなことにならなかったら、全部やるべきことを終えたあと、慶子と別れて君と一緒になるつもりだったのかもしれない。少なくとも、俺にはそう思えた」  芹沢の言葉に、州波は静かにかぶりを振る。 「そんなことはわからないわ。それにいまになってみれば、もうそんなことはどちらでもいいことよ。それより、彼にとって本当にこれで良かったのかどうか、そのことのほうが心配だわ」 「何を言っているんだ。事件は全面解決したんだよ。それこそ明石が望んだことじゃないか。隠蔽工作を告発するために、あいつはどんなにか悩んだはずだ。そしてやっとそれを実行しようとした直前に殺されて、そのうえ自殺という扱いにされてしまったんだよ。あいつはどんなにか無念だったろうと思うよ。だけど、その犯人ももう捕まった。みんな君のおかげだ。明石はきっと君には感謝しているさ」  芹沢は心からそう思っていた。 「そうかしら。康和銀行の名前はもうすぐ消えてなくなるし、損失隠しに関わっていたとして、結局は明石さんの名前も公表されてしまったのよ。この先、ご家族への影響も避けることはできないでしょう」 「それはしかたがないよ。事実は事実なんだから。それに、あのまま闇に葬られて、自殺ということで処理されることを思えば、何十倍もよかったと思う」 「事実は事実ですって? そんなことよく言えるわね。あなたは知らないのよ、残されたものがどんな思いをするか──」  びっくりするほどの剣幕だった。 「だけど、とにかく犯罪が明らかになって、全面的に解決したんだ。いまになって君がそんなことを言うのおかしいよ。君は何もかも棒に振って、明石のためにこれまで一途に突き進んできたのじゃないか」  州波こそ、事件の解決を一番喜ぶべき人間だと芹沢は言いたかった。 「私はただ答えが欲しかっただけよ。本当のことを知りたかっただけ」 「いや、君は明石を救ったんだよ。不名誉な犬死にから、あいつを守ったんだ。もっと喜んでいいはずなのに、嬉しくないのか? これが君が探していた答えじゃないのか?」  事件は解決したではないか、なのにまだほかに何があるというのだ。芹沢は州波の表情が思ったほど晴れないのが気になった。 「いいえ。むしろ、ますますわからなくなってしまったわ。でも、もしいま明石さんと一緒に喜ぶことができたら、きっと嬉しかったかもしれないけど」  芹沢はハッとして州波を見た。 「ねえ、これで本当に何かが変わるのかしら? 確かに、康和銀行の幹部陣は根こそぎ免職になったわ。だけど、これですべてが改善されるとあなたは本当に思えるの?」  州波はまっすぐに芹沢を見つめ返している。 「あんな古い体質の邦銀が、幹部役員を全部入れ替えるということは、そのことだけでも意味のあることだ。それだけ、真摯な問題意識が育っているという証拠だと俺は思うよ」 「だけど、新しく役員に就任した人達のコメント聞いたでしょう。損失隠しのことなどまるで初めて知らされたような顔をして、驚いて見せていたわ。見え透いた嘘を平気で言える人達なのよ。外部の人間ですら、ブローカーの間なんかでは、薄々感づいて噂していたくらいですもの、康和の役員なら知らなかったはずないじゃない」 「確かに君の言うとおりかもしれないよ。しかし、今後はトヨカワ自動車が見ているからね。トヨカワの持ち株会社設立の動きは、今後の日本の金融界を大きく変革していくひとつのモデル・ケースになるはずだよ」 「そうかしら。本当は何が悪いのか、いったいどこに問題の根本があるのか、それがはっきりと認識されていないかぎり、また同じことを何度も繰り返すだけよ。何度も何度も不祥事を繰り返して、それでも何十年もこの国が変わらなかったように」  吐き捨てるように州波は言った。確かに何かにこだわっている。芹沢にはそれが感じられた。明石の事件が解決しても、まだそれだけでは十分ではないのだ。何かもっと大きな、底知れないようなあきらめが、州波を支配しているような気がした。だが、それが何なのか芹沢には想像さえつかない。 「なあ、みんな口では批判するさ。確かに君の言うように、問題ばかりのシステムかもしれない。だけど、たとえそうでも、所詮その中で働いているのは俺達人間なんだよな。矛盾だらけとわかっていても、なんともならないとわかっていても、俺達はまた自分の職場に帰っていかなければならない。たとえそこが戦場でも、嘘で固めた虚像の城でも、仕事がある限り、また帰っていくしかないんだよ。確かに明石は死んだ。いくら呼んだってもう帰ってはこないよ。明石は銀行の犠牲者だ。それを認めるのはやりきれないぐらい辛いことだけれど、それでも、残された俺達は生きていかなきゃならないんだ」 「生きていくって、そういうことなのかしら……」  州波の言い方は、だが決して投げやりではなかった。 「君はこのあとどうするんだ。やっぱりニューヨークへ戻るのか?」 「ええ、そのつもり」 「仕事はどうする?」 「来ないかって声をかけてくれるところはあったのよ。前と同じぐらい条件のいいところもなくはないわ。私の持っている大口顧客のネットワークが欲しいのね、きっと。まだ果たして有効かどうかわからないのにね。でも私決めたの、もし行くとしたらここしかないかってね。南カリフォルニアの小さな投資顧問の会社なのだけど」  名前を聞いたが、芹沢がこれまで一度も耳にしたことのないところだった。おそらく、名もない小さな組織なのだろう。そのことはざっと資産規模を聞いただけでも、容易に想像がついた。これまで州波がしてきた仕事から較べれば、たぶん百分の一か、もしかしたら千分の一にも満たないサイズの会社らしい。 「でも結構運用のパフォーマンスは良くて、頑張っているところみたいなのよ。お客といっても、年金生活をしているような老人ばかりが対象の投資顧問だから、半分ボランティアみたいな会社だと笑う人もいるけれど、その分だけ、彼らの運用利回りには生活がかかってくるわけですもの、責任重大なのよ。ボスは、よけいなことを考えずに、思う存分好きなようにやればいいと言ってくれたわ。また一からやりなおしてみるには、いい職場だと思っているのよ」  ことさら嬉しそうに話してはいるが、どこかに無理がある。 「そうか、行ってしまうのか」  そんなところに行くのは、惜しいと芹沢は言いたかった。ほかにいい条件の職場はいくらでもあるはずだ。 「仕事があるかぎり、なんとかやっていけるという気がするじゃない?」 「それで、出発はいつ?」  どうしてこんなことを訊いているのだと、芹沢は自問した。もっとほかに言うべき言葉があるはずじゃないか。言い出せないで、わかったような顔をしている自分がもどかしかった。 「今夜よ」 「え、そんなに急な話なのか」  思わず声が大きくなった。そんなに急がなくてもいいではないか。 「だって、帰るなら早いほうがいいでしょう。もうこっちにいてもしかたがないから」  州波は、こんな芹沢の気持ちなど、気づくこともないのだろう。 「しばらくゆっくりするのかと思っていたよ。それとも、東京にいるのはもうたくさんか」 「そんなことはないけれど。ただ私のことは、もう日本中に知られてしまったでしょう。目的のためなら手段を選ばず、誰のベッドにでも近づいていくような女だということも──」  州波は他人事のように言った。ぞっとするほど自虐的な声だ。 「自分のことをそんなふうに言うなよ」  芹沢が口にできた精一杯の言葉だった。 「でも、事実だわ」 「やめろよ。みんな明石のためだったんだろ。ほかにしかたがなかったんだ。だからもう、何もかも全部忘れてしまうことだ」  芹沢は早口でそう言った。無性に腹立たしかった。だが、何に対して腹を立てているのか自分でもよくわからない。ただ、もうこれ以上この話題に触れるのは耐えられない気がした。だが州波は、やめようとはしなかった。 「私ね、最近わかったのよ。あの週刊誌の記事もまんざら嘘ばかりではなかったかもしれないってね。あのころは、確かに私の中にもうひとつ別の生き物が棲んでいたみたい」  州波は芹沢から視線をそらせて、静かに語り始めた。 「私はこれまで長い間仕事だけに没頭して、自分が女であることを否定して生きてきたの。ずっと昔祖母に言われたことを守ってね」 「おばあさんに言われたこと?」 「ええ。『あなたは子供を産むという女としての一番の武器を失ったのだから、人に頼ることを考えないで、一人で自立できる仕事を見つけなさい』ってね。祖母は祖父が早くに亡くなってから、女手一つで母や伯母を育てたの。株屋をしていたというから、いまの証券セールスの走りなのよね。祖母はどんなときも毅然としていたわ。『しっかりとした自分の世界を持っていれば、仕事がいつかきっとあなたを助けてくれる』って、いつも私にそう教えてくれた。だから私は、その言葉を守って、女であることなんて忘れて働いた」  芹沢は黙って州波の横顔を見ていた。 「でもね、この傷がときどき教えてくれるの。たとえば、そうね、雨が降る前なんかがそうよ。おまえは女なのだよって思い出させてくれる。そんなこと、どうでもいいことだとずっと思っていたけど、そうやって不自然に抑えつけ、無視し続けてきた私のなかの女の部分は、自分でも気づかない間に貪欲な雌に姿を変えていたのね」  州波は下腹部に手をあてて、いったん言葉を切った。突き放したような言い方だ。乱れのない穏やかな声である。その分芹沢は聞いていることに息苦しさを覚えた。 「いつも誰かに後ろから見られているような気がしたわ。男の人を意のままに操っているつもりで、有頂天になっていた私を、誰かにずっと見られているような気がした。あれは、きっと明石さんだったのかもしれない。きっと私を見ていて、それで責めていたのかもね。私はその視線に向かって、心のなかで一生懸命弁解していた──」 「いや、それは明石じゃないよ。君を背後から見ていたのは、そうだな、きっと、君の良心だったのじゃないかな。君の良心が、君の行動をきちんと見ていたんだよ」  君はそういう女なのだと、言いたかったのだ。州波はほんの少し首を傾げただけだった。 「最初はね、何もかも自分で立てた計画だった。はっきりとした目的があったから、意図的に、利用できそうな男達に近づいていったのよ。そのことには間違いはないの。だけどそのうち私は、どこかでそれを楽しんでいる自分に気がついたわ。自分のなかの女を燃やしてみたかったのじゃないかってね。男達の前に立つことで、私は自分の存在を確認していたのだと思う。私はまだ女よ。もう若くはないけれど、人生のもっとも熟した季節にいる女なのよってね。こんな身体なのに、おかしいでしょう」  州波はまた自虐的な笑みを浮かべた。 「そんなことはない。君は完璧な女性だよ」 「気休めを言わないで。この傷を見たでしょう」 「あんなものが、何だよ。大なり小なり、傷のひとつぐらい誰にだってあるよ。完璧な人間なんていやしない。子供なんてできなくても関係ないよ」 「完璧な人にかぎってそう言うのよ。でも私はそうじゃないから、だからこそ完璧でいたい。そうよ私は完璧でいたいのよ」  芹沢はそんな州波を正視できなかった。何か言いたいと思ったが、たとえどんな言葉を見つけだしても、たぶんただ口先だけの慰めにしか聞こえないだろう。 「もしかしたら明石さんとのことも同じだったのかもしれない。私は、彼にもきっとどこかで完璧を求めたのね。そしてそのことが彼を追い詰めた。追い詰めて、無理をさせて、結局死なせてしまったんだわ。弟をそうやって追い詰めたように──」  その思いがあったからこそ、州波は進んで自分を汚し、傷つけていったというのか。明石を失ったあと、まるで自分自身を自ら傷つけるように、男達のなかに身を置いたというのか。 「そんなことはないよ!」  叫んだ自分の声があまりに大きかったので、芹沢は自分でも驚いた。 「そんなことはないよ。そんなことはない」  芹沢はただそう繰り返していた。 「どうしてそんなことが言えるのよ。何も知らないくせに!」  州波の声はさらに大きかった。 「知っているさ」 「よく言うわよ。あなたなんか、何も知らないじゃない。明石さんが私にとってどんな存在だったか。弟がどんなふうで、どうして死んでいったかも、何も知らないじゃない」  州波は眼を見開いて、芹沢を睨み付けるように見た。真っ赤に充血した眼に、あふれるものがある。 「それでも、わかるさ」  芹沢は思わず州波の肩に手をかけた。州波はこんなに華奢な人だったのだろうか。その感触があまりに頼りなげに思えて、芹沢はあらためて州波を見た。 「もう無理するな。いいじゃないか。全部吐き出して楽になれよ」 「やめてよ、私には必要ないわ」  州波はその手を力一杯払いのけた。 「泣けよ。無理しないで、思いっきり泣けばいいじゃないか」  それでもかまわずに、また肩に手を置いた。 「嫌よ、私は強いのよ。泣いたりなんかするわけがないわ」  州波はまたそれを振り払い、激しく言葉を吐いた。眼を一杯に見開き、顔をあげ、大きく息を吸って、精一杯自分を保とうとしている。 「どうしてそんなに我慢するんだ。泣けばいいよ」  顎をあげ、横を向いた州波の眼から、あふれたものが一粒頬をころがっていく。その落ちていく音すら聞こえるような気がして、芹沢はじっと目が離せなかった。 「いいえ、言ったでしょう。私は強いのよ──」  そう言いながら、州波は必死で堪えていた。だが、言葉とは裏腹に涙はあふれて、幾筋もころがっていく。芹沢は州波を強く引き寄せた。腕のなかに包むと、州波はさらに小さく感じられた。そしてあの香りがした。 「私は強いのよ、私は強いのよ……」  声がしだいに小さくなっていく。肩が小刻みに震えだすのもわかった。州波が泣いている。芹沢はあらためてそう思った。おそらく明石が死んで以来、やっと初めて流す涙なのに違いない。  向かい合って立っていたときには聞こえなかったものが、触れあった肌を通してはっきりと伝わってくる。州波の身体が全身で叫び声をあげていた。芹沢は自分の左手を州波の背中にあて、右手でその小さな頭をすっぽりと包んだ。まるで両の手のひらを通して、州波の哀しみを全部吸い取ってやりたいとでもいうように、芹沢は何も言わず、ただ静かにそのまっすぐな髪を撫でた。  州波の身体から、かすかな波動が伝わってくる。低く聞こえる嗚咽は、まるで痛みのような感触で芹沢を捕えた。これまで積もりに積もったものが、その押し殺した声になっていま静かに放たれている。  応えてやりたかった。せめて明石の代わりになって、受け止めてやりたいと思った。細い身体で、誰にも助けを求めずに、たった一人で必死で戦ってきた州波が、いとおしくてならなかった。  どれぐらい時間がたっただろうか。  州波はいつしか芹沢の腕のなかで、ゆっくりと静まっていた。  州波がニューヨークへ行ってしまったら、自分はいつか州波のことを忘れてしまうのだろうか。最初偶然に出会ったとき、そして二度目に嘘までついて会ったとき、州波はまぶしいほどの存在だった。そして芹沢はそんな州波に反発を感じ、激しく嫌悪した。  そのあとに知った州波の過去や、長いあいだ変わることなく続いた明石への想いが、州波の思い詰めた行動と一緒に、今は鮮やかに焼きついている。その州波を、いまは自分の腕に抱きとめているのだ。芹沢はそのことを強く実感した。  だが、それもすべて、時間がたてば少しずつ薄らいでいき、やがて記憶のなかからも消えてしまうのだろうか。芹沢はもう一度州波を強く抱きしめた。この感触を、できればずっと覚えていたい──。 「もう、行かなきゃ」  くぐもった声で州波が言い、自分のほうから身体を離した。 「やっぱり行ってしまうのか」  そう言いながら、だからといって、州波を止めようとしているのかどうか、芹沢にはわからなかった。 「大丈夫か?」  ありきたりな言葉だと自分でも思う。もっと別の気の利いた言葉はないのだろうか。最後に、州波のなかに長く残るような言葉を伝えたいと思うのに、芹沢には、自分がいま何を言いたいのか、何が言えるのか、そして何を言うべきなのかもわからなかった。 「ええ。仕事があるもの、私には」  やっと州波が顔をあげた。 「ごめんなさい。恥ずかしいところを見せてしまったわ。でも、もう大丈夫よ。ありがとう」  小さな声でそう言ってきまりわるそうに微笑んで見せた。その表情のひとつひとつを、記憶に刻み付けるように、芹沢は州波の顔をじっと見つめた。こんな州波を見るのは初めてだと、芹沢は思った。 「私ね、大手を振って堂々と行くわ」  州波は晴れ晴れとした顔をしていた。 「こんなことでへこたれて、めげていられるほど、私はもう若くないもの。あなたが言ったように、残されたものは生きていかなければならないのよね。やりきれないほどのことばかりでも、やっぱり私にはこんな生き方しかできないから」  州波はそう言って大きくうなずいた。州波の瞳にまた光が宿っている。もはやさっきまでのような痛々しさは、微塵も残されていないのを芹沢は知った。 「俺、この前の友達の車を借りて、成田まで送っていくよ。何時の飛行機?」 「いいわよ、タクシーで行くから」 「送りたいんだ」  芹沢は本心からそう思っていた。だが、州波は笑い顔のまま、きっぱりと首を横に振った。 「本当にいいのよ。その前に、まだ行くところがあるから。でも、ありがとう」  もうさっきまでの州波とは違うと思った。自分の腕のなかで、はじめてすべてをさらけ出した州波は、すでにまたもとの彼女に戻っている。顎を少しあげ気味にして、胸を反らし、毅然とした雄々しいほどの、いつもの州波だった。     2  州波が玄関を出ていったあとは、部屋が一瞬にして、空虚なモノクロの世界になってしまった。州波がこの部屋にやってくるまでは、ここはいまと同じ芹沢だけの空間だったはずだ。それなのに、いまはまるで違っている。  芹沢は強い脱力感に襲われていた。空気までが、だらしなく緩んでいる。州波がいたときはあれほど緊張感のあった部屋が、どうしてこれほどまでに変わってしまうのだろうか。それは解放感でもくつろぎでもなく、切ないほどの虚脱感だった。  州波を玄関に見送ったままの姿勢で、芹沢はただ意味もなくずっと立ち尽くしていた。  頭がまるで働かない。何もする気になれないのだ。視界のなかに、動くものが何もない。すべての音さえもが消えていた。  ふと思いたって、芹沢は仕事部屋に向かった。まっすぐにデスクの前まで行き、椅子に座る。さっきまで州波が座っていた場所には、かすかに州波の香りが残っているように思えた。  パソコンにスイッチをいれて、モニター画面を立ち上げる。この前佐々木と三人で作業をしたとき、州波のラップトップから写しとった電子メールのファイルが、まだ消去しないでそのままになっていた。  芹沢は反射的にファイルを開き、懐かしさにかられて一通ずつ読み進めていった。たったいま別れたばかりなのに、州波がこの部屋にいたことすら、自分の夢想だったような気がしてくる。  俺は何をやっているんだ。無意識に目で画面の文字を追いながら、芹沢は自分の浅ましさを恥じた。明石に宛てた文面にあふれる州波の優しさに、触れたがっている自分に気がついたのだ。  思い直して、ファイルを閉じようとしたとき、不意にひとつのメールに目が止まった。 「何だこれは?」  芹沢は思わず叫んでいた。明石とのやりとりに混じって、発信人の名前の下に、康和銀行の名前の書かれたメールを見つけたからだ。確かに州波のメール・ボックスあてに送信されたものなのだが、発信人は、康和銀行のニューヨーク支店、高倉光明となっていた。  すぐに受信メール全体のリストを開いてみた。調べてみると、高倉からのメールはほかにも何通かある。州波に宛てたメールに間違いはないのだが、文面から見ても、高倉はメールの受信人の名前が、有吉州波だとは知らされていないようだ。  どういう男なのだろうか。芹沢はどうしても確かめずにはいられない気がした。州波は自分の名前を明かさず、高倉という男とのメールのやりとりを通して、康和銀行の内部の人間に接近していたということなのか。 「何のためにそんなことを──」  芹沢は強い興味を覚えて、メールを丁寧に読み進めていった。二人のやりとりはすべて英語でなされていて、高倉は州波のことをミスターSと呼んでいるのがわかった。どうやら高倉は、州波をアメリカ人の男性だと思いこんでいるらしい。州波もまた、こちらからの発信にはSとだけ名乗っていた。 「これは──」  一通ずつメールを読んでいくうちに、芹沢はじっとしていられなくなってきた。 「──まるで、逆のことをしているじゃないか。一方で康和銀行を潰そうとしておきながら、これじゃ康和銀行を救おうとしているみたいだ」  高倉がどういうきっかけで州波と知りあったのかはわからない。だがメールの日付や文面から、二人のやりとりは、高倉がまだロンドン支店にいたころに始まり、州波が康和銀行の崩壊に向けて、あらゆる手段で計画を進めていたころ、最も頻繁に交わされていたことがわかる。何人もの男達に接近して、一心に康和銀行を追い詰めていったのと同時進行するように、高倉にも接触しているのである。  だが、州波が高倉という男に向けて送っていたのは、康和を崩壊させるためのものではなかった。いや、むしろその正反対というべきだ。当時、康和銀行が業務提携を結ぼうとしていた、米国系の投資銀行というものについて、その内部事情や経営姿勢、ビジネスへの取り組みかたなど、こと細かな情報を与え、警告を発していたのである。  ともすれば、ビジネス・カルチャーの違いから、無用な誤解を招くことを懸念し、州波は高倉に米系銀行の実態を漏らさず教えてやっていたのだ。 「そうだったのか。俺はまったく君の表面的な行動しか見ていなかったよ」  芹沢はあらためて、州波の願いを知った気がした。明石の無念を晴らすために、康和銀行が潰れることを望んでいるのだとばかり思ってきたが、州波が真に願ったものは、そんなに短絡的なものでも、利己的なものでもなかったのである。 「君は本当は康和銀行を救いたかったのか」  メールを読み進めながら、州波の隠された行動を知ったいま、はっきりと見えてくるものがあるのを、芹沢はあらためて感じた。州波が画策したものの、これが本当の姿なのだ。  州波の文面は続いていた。 『あなた方の敵は、外銀でも、横並びの他行でもない。ましてや大蔵省でも日銀でもない。あなた方一人ひとりのことなかれ主義の心です。付和雷同の態度です。日本の銀行のいいところをもっと大切に、日本人ならではの長所をもっと生かして下さい。手放しで外資系に頼ると足をすくわれます。まったく異質のカルチャーと、別の目標や手段をもった組織です。互いに長所も欠点もありますが、慎重にならなければなりません。そして、どうか賢明に現状を見つめなおしてください。ほかに康和銀行を救える道がきっとあるはず。  一九八六年にロンドンで起きた|金融革命《ビツグバン》直後、多くの現地国内金融機関が、外資系大手企業の参入によって淘汰され、統合されて消えていきました。いま、日本がその金融システムの大きな変革を前に、嵐の前夜に立たされています。必要なのは自分達の銀行を真に見直そうという行員全員の心からの意志でしょう。もしあなたの言うように、愚かな舵取りをしようとする幹部が存在するなら、それらを排除していく勇気でしょう。  もしどうしても提携や合併に進まざるをえないなら、目を見開いて、相手を利用できる賢明さを養ってください。日本人は優秀な民族です。これまで培われた日本人特有の勤勉さと、忍耐強さを、いまこそ正しい方向に生かしていくべきです。群れに安住せず、個人として行動する強さに目覚めたとき、必ず道が開けるはずです』  強く訴えている州波の心は、そのまま高倉に伝わっていた。高倉が書き送った返事を読んでも、彼がミスターSを深く信頼し、敬意を持って質問を重ねているのがわかる。そしてそのすべてについて、州波は実例をあげ、自分が所属する組織の実情を、長所も問題点も包み隠さず教えてやっているのだ。それこそまさしく、親身になって康和銀行の将来を考え、経営危機からの蘇生を願う姿ではないか。 「君という人は、なんていう人なんだ──」  芹沢を温かいものが包んでいた。潰れるべくして潰れるものなら、いっそ康和銀行など潰したほうがいいのだと、あのとき州波は息巻いた。マスコミの激しい追及に直面した場合でも、カメラに向かって毅然と言ってのけた州波である。そんな態度を、冷酷で、実利主義で、|狡猾《こうかつ》だとさえ書かれたこともあった。外資系企業から金を受け取っているかのように言われ、邦銀を崩壊に導く張本人として、日本中の反感を一身に集めたときもあった。  その州波が、密かにこんな行動にも及んでいたことを、誰が知っているだろう。 「あっ、もしかしたら……」  芹沢は急いでメールのファイルを閉じた。すばやくもう一つ別のファイルを探してみる。突然頭に浮かんだことがあったからだ。  この前佐々木がこの部屋に来た夜、三人で作業をしたとき、写し取ったデータの中から偶然見つけたファイルである。あの経理関係のファイルは、まだ消さずに残っていたはずだ。州波から、これは東京に来てから作成したもので、関係ないものだと言われたので、あのときは中を開いて見ることはしなかった。 「やっぱり思ったとおりだ」  芹沢が開いたファイルには、ある会社の資産運用の記録が保存されていた。日付順に、数千万円から数億円の単位で資金の動きが記録されている。しかもかなりの件数である。いかに活発に日本株の売買を行なっていたかが、その資金決済の方法とともに、よくわかる詳細な内容だった。  日付を追って、一件ずつ読み進めるうちに、芹沢のなかにひとつの確信が芽生えてきた。 「もし本当にそうなら──」  そう思うと、芹沢はじっとしていられない気がして、すぐに電話のところに急いだ。指がためらうことなく番号を押した。仕事で毎日何度もかけるので、指が自然に覚えてしまった番号の一つである。 「はい、野々宮証券です」  やはり出社している人間がいた。休みの日でも、電話をするとここには必ず誰かが来ている。芹沢は安堵した。「みんな貧乏性ですからね、休みでもついデスクに足が向いてしまうんです」と、いつか斉藤が笑っていた顔が浮かんでくる。 「ファースト・アメリカの芹沢と申しますが、債券営業の斉藤さんは今日お休みですよね?」 「いつもお世話になっております。ええと、斉藤ですね。さっきいたような気がするんですが、ちょっと探してみますのでお待ちいただけますか? それとも、こちらからかけ直させましょうか?」  聞き覚えのない若い男の声だが、丁寧な応対だ。芹沢は待っていると答えた。保留になっている間、音楽が流れてきた。それを聞きながら、芹沢は先週斉藤から聞いた言葉を思い出していた。日本株の営業を担当する同僚から聞いたという話である。 「連休前の、康和銀行の暴落のときは、ずいぶん外人勢も動きましたからね。株価の下支えのために、大蔵省が空売りの規制を強めたり、貸株の売却にも網をかぶせるなんて言ってましたけどね、そんなもの実際にはなんとでもできますから」  斉藤の話では、そんな値動きの激しい相場の中で、小さいながら率先して市場をリードするような動きをする客がいたという話だった。 「あの会社はすごかったらしいですよ。最初、康和が外資と業務提携の話を発表したときも、結構早くから買いを入れたようでしたが、例の交渉決裂のとき、ピークから一気に売り崩しに入った場面では一番に売り始めたそうですよ」  相場の話となると意識して冷静さを装う斉藤だが、今回の話はいつになく興奮していたので、よけいに記憶に残っていた。  その客が、それまでの買いから一転して、急激に康和の株を売り始めたのが、提携交渉決裂のニュースが流れる直前だったので、康和銀行に何か起きるのではないかと、株価の動きを見て予感した関係者も多かったという。その客の名前は、康和の一件があるまでは、聞いたこともなかったので、営業担当者の間では一時かなり噂になったという。 「こと康和の株に関しては、その客が口火を切って、そのあといつもの外人勢の大手が追随した格好だったそうですよ。なんだか相場を引っ張っている雰囲気でしたね。もっともあんな小さな会社だけの力じゃ、あれだけ相場は荒れませんでしたよ。あの日は本当に凄かったですよね。|金融派生商品《デリバテイブ》や短期資金から、為替市場まで一気に崩れましたからね。ただ不思議なのは、まるであそこに先導されているみたいに、大手の外国の投機筋がバンバン動いたことでした。香港や欧米あたりの超大物が、後を追うように同じ動きをするんで、近年にない大規模な仕手戦になったんですよ」  最終的に康和銀行の取り付け騒ぎを招いたあの日のことは、いまもはっきりと覚えている。 「いっときは、めっぽう稼いだんじゃないですか。そうですね、全部合わせてかれこれ三十億ぐらいにはなったかも。もっぱらの噂でした。うちの営業の人間は、あの会社のことを、どこかの中小企業が、また本業を忘れて相場に熱をあげてるんじゃないかと言ってましたよ。だから、その客にはずいぶん力を入れていましてね。うちとしては、そういう客がもっと増えてくれると、商いが増えてありがたいですから」  斉藤が熱心に聞かせる話にも、あのときの芹沢はさほど関心がなかった。  保留音が途切れて、さきほどの男が電話口に戻ってきた。 「大変お待たせしました。申し訳ございませんが、斉藤は今日は休ませていただいております。さっき見かけたと思ったのは、私の勘違いでした。何か、私で代わりにお役に立てることでしたら──」  丁寧な相手の応対に、芹沢は恐縮した。謝ってもらうことさえ心苦しい。 「いえ、実は仕事ではないんです。斉藤さんにちょっとお聞きしたいことがあったものですから」 「それなら、斉藤の携帯電話の番号をお知らせしますので、おかけになってみられたらいかがですか?」  男はあくまで親切だった。 「そうですか、お休みなのに申し訳ないですが、ちょっと急ぐものですから」 「いや平気ですよ。ご遠慮なく」  相手の男はそう言って、番号を告げた。芹沢が早速電話をしてみると、斉藤は嬉しそうな声で電話に出た。 「いやあ、お恥ずかしい。柄にもなく、子供達を連れて遊園地に来ているんですよ。久しぶりの家族サービスというやつでしてね。しかし、こんなに混んでるものだとは知りませんでした。いま女房と子供達が列に並んでいるんですが、私だけちょっと抜けて一服やっているとこですよ」  芹沢が恐縮しながら康和銀行の株の話を持ち出すと、斉藤はすぐに思い出したようだ。 「わかりました。いまからうちの日本株の担当者に電話して、調べさせますよ。今日は会社に出ているはずですから。あの客がどんな会社かわかればいいんですね?」 「お休みのところを申し訳ありません」 「いえいえ、ちょうどすることもなくて困っていたところですから──」  芹沢が電話の前で返事を待っていると、十分もしないうちに斉藤から電話が入った。 「わかりました。それが、変わった名前でしてね。できたばかりの小さな会社らしくて、ええと株式会社エヌ・ユー・エイチ。資本金は五千万円で、住所は渋谷区広尾になっていますね」  やはりそうだったと、芹沢は思った。 「業種は不動産管理会社という名目のようです。結構大きい金額を動かしていましたので、うちの上のほうが途中からちょっと懸念して、資金決済にはだいぶ厳しい条件をつけていたようですが、問題は一切なかったということです」 「社長は女性だったでしょう?」  芹沢は思わずそう訊いた。有吉州波になっているはずだ。 「いいえ、男性ですよ」  斉藤は即座に否定した。 「代表者の名前は確か明石。ちょっと変わった名前で、ええと、明石翔武となっています。ただね、うちに株の売買の電話をしてきたのは、いつも落ちついた女性の声だったと言っていましたが」  それが州波に間違いない。康和銀行株が大暴落をしたとき、それを誘導するために、州波は自分の個人資産を投じて仕掛けをやったのだ。おそらくは、マンハッタンやニューヨーク郊外に所有していたという不動産も、処分するか、あるいは抵当に入れて、その原資を作っていたのだろう。さっき芹沢が見つけた、州波のパソコンから写し取った資産運用の記録データに保存されていた、それらの詳細と照らし合わせてみると、すべてのつじつまがあってくる。  つまり州波は、明石の復讐のために、私財をなげうって、康和株の売り崩しをやったのだ。きっと、いくつかの外人勢の大手投機筋もうまく率いたうえでの、大仕掛けな相場を仕組んだのだろう。そう考えると、メイソン・トラストとの提携決裂が発表になった日、あれほど相場が荒れたのが、すべて州波の仕業だったということも読めてくる。 「わかりました。ありがとうございます。それだけわかれば十分です。お休みのところ、お手数かけて本当にすみませんでした」  芹沢は何度も礼を言った。たとえ私財を全額投じたとしても、州波のことだ、うまく暴落相場を切り抜けたに違いない。芹沢が電話を切ろうとしたとき、斎藤は思い余ったように切り出した。 「でもねえ、この会社にはちょっとがっかりさせられました」 「え、がっかりって、何がですか?」 「ここは、会社自体は小さいし、この世界にはまだ新参者だったのですが、最初からすごく相場観にたけた読みをしていましてね。売り買いのタイミングも抜群だったというのは、いつかお話ししましたよね。うちの担当者も、最初はビギナーズ・ラックだと言ってたんですが、あんまりうまいから、途中からかなり慣れたプロじゃないかとさえ感じたそうです。ですから、これからも上客になると思って期待していたんですよ。だけどやっぱり素人だったんですね。最後の土壇場になって、馬鹿なことをしたらしいんです」 「馬鹿なこと?」  斉藤の同僚によると、最初はあれほど康和銀行株の売り崩しを進めておきながら、再建が絶望的だとみんなが言いだした途端、大量の買いに出たというのだ。 「それは、|空売りの買い戻し《シヨート・カバー》だったんじゃないですか?」 「もちろん最初はそうでした。だけど、そんな程度の額じゃなかったらしいんです。いったい何を血迷ったんだか、途中から買い持ちに転じたようでね。まるで買い支えをしたがっているみたいな買い方だったと担当者は言ってました。康和銀行がもうだめなことぐらい、子供だって知っていたときにですよ」  芹沢は耳を疑った。ばかげているとしか言いようがない行為である。しかし、みすみす損をするのがわかっていて、それでもどうしても康和銀行株を支えたかった州波の真意が、いまなら理解できる気もしてきた。 「それで、その会社はかなり|損失《ロス》を出したんですか?」  おそるおそる芹沢は訊いた。まさか、州波がすべてを失っていないといいが。芹沢は祈るような思いだった。 「そりゃそうでしょう。あれだけ馬鹿な買いをしたのですから、かなりの|損失《ロス》をしたのは間違いないでしょうね。はっきりとした額は知りませんが、うちだけでも損失額は十五億円はくだらないと言ってましたし、ほかの証券会社でも派手にやっていたみたいでしたからね。大手三社でうちと同じくらいやっていた以外にも、中堅どころを入れると結構な額になりますよね。あんな無茶をやったんでは、会社が潰れずに済むわけないですから」 「え、やっぱり潰れたんですか?」  芹沢は思わず大きな声で訊いた。 「よくあることとはいえ、ちょっと悲劇ですよ。さっき、資金決済は問題なかったと言いましたでしょう。だけど、最後だけ入金が少し遅れたらしいんです」 「何かトラブルがあったのですか?」 「いえ、一瞬ヒヤッとしたというか、トラブルになるんじゃないかと担当者が心配したそうです。まあ、最終的には問題なかったらしいんですがね。当然担保にしてあった不動産を処分したらしくて、その売却手続きに手間取ったのだそうです。要するに、何もかも吐き出してしまったということなんでしょう。まあ自業自得と言ってしまえばそれまでですが」  斉藤の言葉が頭の中に響いていた。いますべてのことが解けたと思った。州波は、康和銀行を潰そうとしたのではなくて、救おうとしたのだ。しかも自分の個人資産を全部差し出してまでである。 「芹沢さん、この会社の方をご存知なんですか?」 「いえ、そういうわけではないんです」 「それならいいんですけどね。ただ、どうしてこんなことお訊きになるのかなと、ちょっと思ったものですから」  芹沢の様子が斉藤にも伝わるのだろう。心配してくれているのがわかった。芹沢はうまく取り繕って礼を言った。 「そうそう、そんなことより芹沢さんは何かお聞きになっていますか? 来週早々にも、また一波乱起きるそうじゃないですか。詳しいことは知りませんが」 「何ですか一波乱って?」 「いや、私も詳しくは知らないんですよ。だから、もしご存知なら教えてほしいと思ったぐらいです。さっき、うちの株式担当の人間が漏らしていたんですよ、来週は相当荒れるかもしれないぞなんてね」  芹沢に心当たりはなかった。もう一度丁寧に礼を言って、電話を切った。相場のことなどより、いまは州波のことが気になってしかたがないのだ。それにしても、どうしてここまでするのだろうか。それがたとえ明石のためであっても、ここまでやる必要があったのか。州波の一途さに、芹沢は無性に腹が立った。  芹沢は電話に向かった。だからと言って、自分に何ができるわけでもないかもしれない。だが、どうしても放ってはおけない気がしたからだ。少なくとも、州波がすべてを失ったのを知ったいま、力になりたいという思いだけは伝えておきたかった。  受話器に手を触れた途端、突然電話が鳴りだして、芹沢の身体がびくっと震える。|咄嗟《とつさ》に受話器を取りあげると、送話口からいきなり大きな声が飛び出してきた。 「おい聞いたか? あの人が逮捕されるそうだよ」  児玉の声だ。ひどく動揺している。 「逮捕? 誰のことだ?」 「あの人だよ、有吉さんだよ」  ばかな、と芹沢は思った。 「何言ってるんだ。彼女ならついさっきまでここにいて、今夜の便でアメリカに発つと言って帰っていったよ」  そう言ったあと、すぐに浮かんでくることがあった。まさか、州波が、空港へ行く前に立ち寄るところがあると言っていたのは、そのことだったというのか。芹沢の全身に、激しい後悔が貫いた。 「それは本当なのか、児玉? だけど逮捕なんて、彼女がいったい何をした?」 「ついさっき、|大蔵省《MOF》に行っている友人が極秘に教えてくれたんだけど、銀行局からまた逮捕者が出るというんだ。しかもかなり大物らしい。来週早々にも逮捕状が出るというんだけど、今度の容疑は過剰接待どころじゃないよ。収賄と、もうひとつインサイダー取引なんだって」 「収賄とインサイダー取引? それが彼女とどういう関係があるんだ?」 「それが、有吉さんが証券取引監視委員会に告発したらしいんだ。彼女自らがやったというのだから内部告発というのか、それとも自首というべきか。それでまず最初に、彼女自身が今日の午後にも逮捕されるという話だ。自分から警察に出頭するのだから、逮捕というより、やっぱり自首というべきだろうな。僕は思うんだけど、彼女たぶん、大蔵省を道連れにしようとしたんじゃないかな」 「何のことだ。おまえの言っていることがさっぱりわからないよ」  芹沢は苛立った。 「実はな、有吉というのは彼女の母方の名字で、父親は岩井賢介だったんだ」 「岩井賢介って誰だ?」 「やっぱりおまえも知らないよな。五洋銀行の総務部長だった人で、将来の幹部候補と言われながら、銀行の社宅で自殺した人なのだそうだ。二十八年も前のことだし、有吉さんがその人の娘だということを知っている人は、この業界でもほとんどいない」 「自殺?」  そう言ったきり、芹沢は言葉も出なかった。州波の父親も自殺していた。つまりは、これが州波の追い求めていた「答え」の背景だったのではないか。芹沢はそう直感した。もしも、これまでの州波の行動が、父親の自殺に端を発しているなら、すべての疑問が解けるかもしれない。  めまぐるしく回転を始めた芹沢の頭を、児玉の言葉が素通りしていく。その声は、どこか遠くから聞こえる、まるで意味を持たない雑音のようにしか聞きとれなかった。 「すまん、もう一回言ってくれ」  気を取り直して、芹沢は言った。 「おい大丈夫か、芹沢? つまりな。二十八年前の五洋銀行といえば、その翌年に控えた昭和銀行との合併のため、両行の折衝が続けられていたときだったのさ」  確かに五洋銀行と昭和銀行は二十七年前に合併し、いまは昭洋銀行になっている。 「そのとき五洋銀行は、合併をスムーズに運ぶため、大蔵省の幹部役人に裏で手をまわしたというんだ。つまり、金を握らせたということさ。実際には、大蔵省の銀行局長あたりのほうから、金を要求したという説もあるらしい。当時、五洋銀行には、表に出せない内部のスキャンダルもあって、それを隠し通さなければならなかったんだ。そのへんの事情も、大蔵省の人間はすべて知っていたんじゃないかな」 「それで贈賄容疑がかかったのか?」 「ああ、四半世紀前も今も、この国は何も変わっちゃいないということさ。ところが五洋銀行は、その事実をある新聞記者に、どういうルートで見つけられたのか、すっぱ抜かれそうになったというんだ。悲劇だったのは、岩井氏が銀行局長に金を渡している現場を写真に撮られていたことと、銀行側がこの新聞社にも金をつかまそうとしたことだった。結局、記者は金でまるめこまれ、このことは表沙汰になる一歩手前で食い止めたそうだが、その一連の金の受け渡し係は全部当時総務部長だった岩井賢介氏、つまり有吉さんの父親の役目だったというわけだ」 「それで、責任取って自殺か?」 「本当の理由は本人にしかわからないさ。自ら口封じをしたのか、あるいは銀行側に詰め腹を切らされたのか。銀行側の内部事情をすべて知っている立場としては、まあやっぱり犠牲にならざるをえなかったというところなんだろうな」 「ひどい話だな。それで、その内部のスキャンダルって、何だったんだ?」 「詳しいことはわからないけれど、暴力団とのつながりや、役員の下ネタや、なんのかんのと、くだらないことを種に総会屋にゆすられているのは、昔も今も同じだったのだろう。日本じゃどの業界でも珍しい話じゃないさ。ただ、それを黙らせ、株主総会をスムーズに運ぶために金を使ったり、またその金の出所を大蔵省の検査で見逃してもらうために、さらに役人に金を握らせたり、闇の世界も官の世界もやっていることは変わらないよな。まったく何回同じことをくりかえしたら懲りるんだろうね、この国は」  児玉の声は義憤に満ちていた。 「さっき彼女の容疑は、贈賄とインサイダー取引と言ったよな。ということは、彼女も今回大蔵省に金を渡していたということなのか?」  芹沢は訊きながら、さっきパソコンの中で見つけた運用収益の送金先を思い出していた。もしそうだとしたら、かなりの金が宮島に流れていることになる。だが、それはみんな明石のためだと芹沢は言いたかった。康和銀行の崩壊を画策したとき、州波はそれを実行に移すため、宮島に多額の金を支払ったのに違いないのだ。 「そのへんのことはまだわからないんだ。ただな、インサイダー取引だけなら、アメリカと違って日本ではまだ罪の意識が低いからな。刑も大したことはないはずだよ。証券取引法によると、六カ月以下の懲役か、五十万円以下の罰金程度だということだ。アメリカだと十年以上の懲役、百万ドル以下の罰金、おまけに不正に得た利益とか、免れた損失の三倍までの制裁金を科されるというのだから大した差だよな」 「いや、確か日本も、最近の国会で、証取法の改正案が通過したんじゃなかったか。と言っても、三年以下の懲役や三百万円以下の罰金になった程度の強化だけれど。ただし、インサイダー取引で不正に得た収益については、全額没収されることになったはずだ。これまでには抜けていた処罰だと言っていたのを聞いたことがあるよ」  芹沢は通信社のレポートで読んだことを思い出した。 「ああ、それは九八年の十二月から施行されることになっているというのだろう? 僕は思うんだけどな、もしかしたら有吉さんは、そのへんのことも計算に入れて、意図的にやったとは考えられないかな」  児玉の言葉は、そのまま芹沢の思いを代弁していた。 「審議官や、さらにその上の大蔵省の幹部連中にも、根本からダメージを与えようとして、つまりわざとインサイダー取引を仕組んで、奴等にエサを撒いたわけか。父親の自殺のこともあるから、自分でおとりになって、腐りきった官僚社会に一石を投じようとしたような気もするよな」  もしそうなら、芹沢のなかにずっと存在していた、州波の行動に対する多くの疑問が、これでやっと解けるように思えてくる。 「おまえもそう思うか?」  児玉もすでにそれを見抜いていたようだ。  人一倍市場に敬意を払っていた州波が、自ら市場を汚すようなインサイダー取引に手を染めたのだとしたら、計り知れない決心が必要だったはずだ。きっと彼女は官僚を巻き込んで自爆する気なのだ。そして、二十八年前の父親の身に起きたことも、断罪するつもりなのだろう。  君は何という人なんだ。  芹沢は心の中で叫ばずにはいられなかった。傷だらけになりながら、それでも追い求め続けた答えというのは、このことだったのか。表面的には康和銀行を潰すように見せかけて、実はもっと深いところにある官僚社会の問題を、告発したかったというのか。そして、これでついに、君は満足のいく答えを得ることができるのだろうか。  芹沢はこみあげてくるものを必死で抑えた。 「きっとそうだよ。なんでも証拠として、すごい会話を吹き込んだテープが提出されたらしい。逮捕される審議官というのが、大蔵官僚と銀行幹部との長年の癒着の構造について、全部自分で語っている生の声が録音されているのだそうだ。あの人は自分自身を爆弾にして、いつまでたっても変わらない日本社会の矛盾に、身体ごと突っ込んでいくつもりなんだ。そうやって、官僚側にも銀行側にも、これまでのすべての事実を|開 示《デイスクローズ》させようとしているんじゃないか。せっかく自分が築きあげてきたこれまでのキャリアにも名声にも、傷がつくのも構わずにな」  おそらく、宮島との密会での会話を、こっそりテープに吹き込んでおいたのだろう。州波ならやりかねないことだ。自分を晒し者にし、自ら犯罪者になってまでも、やり通す気なのだ。 「とにかく、芹沢にはすぐに知らせておこうと思って電話したんだ。何かもっとわかったらまた連絡するよ」  児玉はそれだけ言うと、電話を切った。  芹沢は受話器を置くと、しばらく放心したようにその場に立ち尽くしていた。  だが、すぐに気を取り直し、上着に手を伸ばす間も惜しむように廊下を抜け、玄関に走った。ころがっていたスニーカーに足を突っ込んだだけで、急いで外に飛び出した。部屋の鍵をかけようとしたとき、パソコンを消し忘れていたことに気がついたが、もうそんなことはどうでもよかった。 「間に合う。いまならきっとまだ間に合う」  芹沢は無意識に叫んでいた。  外廊下を大股に走り抜ける。エレベータの前まで来たが、待っているだけの余裕はなかった。そのまま階段を一気に駆け降り、エントランスに着く。激しく息が切れた。マンションの表玄関を抜けて、広い通りに出たところで、芹沢はやっと大きく息をついだ。肩が大きく上下するたびに、乾いた空気がひからびた喉を何度も往復する。  こういうときに限ってタクシーは来ない。信号が青になるのが待ちきれないように、広い道路の向こう側に走ってみたが、それでも車の影は途絶えていた。顎を出し、肩だけでまた息をつぐ。  芹沢はその場にしゃがみこんだ。スニーカーの紐を結び直すためだ。そして立ち上がり、もう一度さらに大きく息を吸い込んで、そのまま州波のマンションに向かって走りだした。  恵比寿の芹沢のマンションから、広尾の州波の部屋までは、走るとどのくらいかかるのだろうか。それを思うと気持ちが先走って、足がもつれそうになった。生え際から滲んだ汗が額を伝い、そのまま首筋を流れる。シャツがべったりと背中にはりつくのがわかる。芹沢はシャツの肩で乱暴に汗をぬぐった。  ふと、眼鏡をしていないのに気がついた。 「いいんだ。度のはいっていない眼鏡なんかもういらない。七十パーセントの男なんて、もうたくさんだ」  芹沢は空を見あげた。午後の陽射しが直接目に飛び込んでくる。いつのまにか、夏が来ている。芹沢は、自分がやっと光の中に這い出せたのを知った。  息はますます苦しかった。汗が目に入り、沁みて痛い。芹沢はまたシャツの袖で額をぬぐった。  間に合うだろうか。いや、なんとしても間に合わなければいけない。きっと、州波に会える。必ず会って、言わなければならないのだ。 「たしかに君は、これまで傷をいっぱい負って生きてきた。そのうえ、さらに自分を傷つけるような真似もした。だけど、その傷をもう隠すことをやめたんだ。週刊誌に、自らスキャンダルを告白したのも、そういうことだったんだね。そのことが、やっといまわかったよ。家族の過去も含めて、自分の傷を自分で|公 表《デイスクローズ》することで、君は前に進もうとしているんだ。  ああ、誰だって何かしらの傷を持っている。そうだよ。日本中の人間がそうさ。いや、日本という国自体が、いまはぼろぼろに傷ついて、あえいでいる。自ら作った過去の傷を、ずっと隠し続け、放置したままで、さらに悪化させてきたのだからな。  だけど、その傷を、もう隠し通しているときじゃないんだよな。君は、身をもって、それを訴えたかったんだろう。だから俺は、こう言いたいよ。君の傷は、君がまっすぐに生きてきた|証《あかし》だ、君の勲章なんだよと……」  たぶん、そんなことを面と向かっては言い出せないかもしれない。だけど、それでもこれだけはどうしても伝えておきたかった。 「俺は、君が答えを見つけるまで見届けたい。だから帰って来いよ。いつまでもここで待っているから、必ず帰ってくるんだ」  芹沢はひたすら前だけを見つめ、まっすぐに州波に向かって走り続けていた。 [#地付き]〈了〉 〈底 本〉文春文庫 平成十三年五月十日刊 単行本 平成十年七月 文藝春秋刊